聖書 詩篇40 ヘブライ人への手紙11章1〜2節
説教 聖霊の賜物としての心からの信頼
→今日は北陸連合長老会の交換講壇です。
- 遣わされた牧師たちは、ハイデルベルク信仰問答の同じ箇所から説教をいたします。
- 最初に、その信仰問答を朗読します。
(朗読)
→信仰問答のテーマは、まことの信仰とは何か、ということです。
- 昔ある方が、神様の約束を信じることは大切だとおっしゃるのを聞き、私どもの信仰は神様の約束を信じることだと考えるようになって、信仰に生きるとはどういうことかが分かったように思いました。
- そして、このハイデルベルク信仰問答も、信仰とは、神の約束を信じることであると問22で明確に述べています。
→ヘブライ人への手紙11章1節にこう書かれています。
- 「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。
- 信仰とは確信することだというのです。
- 何を確信するのかというと、望んでいる事柄が本当であると確信するということです。
- あるいは望んでいることが現実になると確信することだというのです。
- 後半では、信仰とは、確認することだというのです。
- 見えない事実が本当である、見えない事実が現実であると確認することだというのです。
→このような信仰の具体例を見てみたいと思います。
- たとえば聖書の最初にある創世記12章にアブラムという人物が登場します。
- 神はアブラムに言うのです。
- 「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。
- わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める」。
- 神はアブラムに約束しているのです。
- 「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」。
- これは今、目に見える現実ではありません。
- これは将来実現することです。
- しかもアブラムの死んだ後にです。
- 彼はこれを信じました。
- 自分の死んだ後の事なんてどうだっていい、とは彼は考えなかったのです。
- むしろ大切なこととして受けとめたのです。
- そして神が示す地に向かって出発しました。
- アブラムの場合、望んでいる事柄、あるいは見えない事実とは、彼の子孫が大いなる国民となり、彼の名が高められるということです。
- つまり神の約束です。
- 信仰とは、神の約束を本当だと信じることだというのです。
- 今実現していなくても、必ず実現すると信じることです。
- 神の約束を前提として生きることです。
- 信じるというのは心の中だけのことではありません。
- 神の約束を与えられたアブラハムは、神の示す地に出かけました。
- 神の約束を信じ、アブラムは神の命令に従いました。
- ここに彼の信仰が見えるものとなりました。
- 信仰は見えるものなのです。
- 彼はなぜ出発したのかと問われたら、神の約束を信じたから出発したと答えることができます。
→ハイデルベルク信仰問答では、信仰とはどのように説明されているのでしょうか。
- 「まことの信仰とは何ですか」との問に対して、答えは次のようになっています。
- 「それは神が御言葉において私たちに啓示されたことすべてをわたしが真実であると確信する、その確かな認識」とあります。
- アブラムの場合には、神の言葉が聞こえてきて、彼はそれを確かなこととして信じました。
- 私どもの場合には、神が私どもに啓示され聖書に書かれていることを真実なこととして確信することだと述べています。
- 聖書に書かれていることが実は神が語ったこと、神が示されたことだというのは、証拠がありません。
- 神の行動は見えないのです。
- でもこれを、真実なこととして確信すること、これが信仰だというのです。
- つまり、ヘブライ人の手紙と信仰の理解は同じです。
→たとえば、「イエス・キリストへの信仰によって義とされる」とガラテヤの信徒への手紙に書かれています。
- これは救いに関わる大切なことです。
- イエス・キリストを信じる者は義とされるという約束、これを真実だと確信する、それが信仰だというのですね。
- イエス・キリストを信じる私が義とされているという客観的な証拠というものはありません。
- 目に見える確かな証拠もありません。
- しかし、私どもは、これが確かなことだと信じるわけですね。
- このように信仰とは、聖書に書かれていることを真実だと確信することなのです。
→確信するということで覚えておきたいことが一つあります。
- なぜ確信できるのかという問題です。
- 確信の根拠です。
- その根拠は、私たちにあるのではありません。
- つまり、私たちの信仰が強いから確信を持つことができるし、信仰が弱いから確信を持てず疑ったりするということではないのです。
- 確信できる根拠、それは神にあります。
- 神の約束だから確実なのです。
- 「あなたを大いなる国民にする」という神の約束だから、それは確かなのです。
- イエス・キリストの十字架の死は救いの出来事です。
- 神の救いの業です。
- だから、イエス・キリストを信じる者が義とされるというのは確かなのです。
- 確かさの根拠は、人の側にあるのではなく、神にあるのです。
→信仰には信じる対象というものがあります。
- アブラムの場合は、彼に呼びかける神の言葉でした。
- 私どもの場合は、問22によれば「福音において私たちに約束されていることすべてです」とあります。
- そしてすべての約束の要約として使徒信条が紹介されています。
→信徒信条で述べられていることは、三位一体の神がどんな方か、そして神がどのような救いのみ業をされたのかが中心です。
- 約束された事柄というのは、使徒信条の最後に示されている罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の命ということができます。
- 私どもの救いのためになされた神の救いのみ業には、沢山の約束が伴っています。
- 問22の答えには、「福音において私たちに約束されているすべて」とあり、約束が沢山あることを暗示しています。
- それらの約束を信じること、確かなこととするのが信仰だというのです。
→そして信仰とは、「心からの信頼のことでもあります」とハイデルベルク信仰問答は述べます。
- 神の約束を心の中で信じるだけではなく、神の約束の実現を信じるのです。
- 神の約束が自分にとって大切なものであると信頼し、その実現を期待して生きるのです。
- 時には、そのために一歩、踏み出すのです。
- アブラムは、神の示す地に向けて旅立ちました。
→福音には、沢山の約束があります。
- 個々の約束の実現を期待して、私どもは一歩を踏み出すのです。
- たとえばイエス・キリストを信じ、義とされたのですから、私どもは義とされた者として生きていくのです。
- 洗礼を受け、イエスに結ばれた神の子とされたのですから、神の子として生きていくのです。
→ところがここに一つ問題があります。
- 私どもの心に疑いが生じるということです。
- あのアブラム、彼は大いなる国民となるとの約束を神から受けました。
- その時、彼には子供がいませんでした。
- 神の約束が実現するには子供が生まれる必要があります。
- なのに子供は授からず、彼はどんどん年を取り、老いていきます。
- 本当に子供が生まれるのだろうか、という疑問が生じます。
- 疑う彼に神は、あなたの妻サラがあなたのために子を産むと約束されます。
- 神の約束を信じようとするとき、疑問が生じるのです。
→イエス・キリストを信じる者は、義とされます。
- 大切な約束です。
- このことを信仰を持っている方は信じます。
- 私どもは神の目に正しい人間と認めてもらえるのです。
- ところが、私どもは罪を犯します。
- あなたは人を裁いたり、ねたみを抱いたり、よこしまな思いを抱いたりしませんか。
- あなたは自分が正しい人間だと思っていいのか、という疑問が生じませんか。
- 神は私を義、つまり正しい人間と認めてくださると言うが、本当にそう信じていいのだろうか。
- だって私は罪を犯しているのだから。
- 罪を犯し、よこしまな思いを抱くのに義とされていると考える、それはおかしいのではないか。そう思うようにならないでしょうか。
→ここで聖書の語る約束の言葉と自分の実感との違いに直面します。
- どちらを信じたらよいのでしょうか。
- 自分は罪を犯してしまう、よこしまな思いを抱いてしまう、それでも義とされていると信じるのか、神の約束は自分には当てはまらないのではないか、と実感にひきずられてしまうのか。
- もし引きずられるとすると、義とされているという恵みを失ってしまうのです。
- ハイデルベルク信仰問答は、問59でこう述べています。
- 「たとえ私の良心がわたしに向かって
- 『おまえは神の戒めすべてに対して、甚だしく罪を犯しており、
- それを何一つ守ったこともなく、今なおたえずあらゆる悪に傾いている』と
- 責め立てたとしても、義とされていると信じるべきである」と書かれています。
- 自分の実感を差し置いて、神の約束をそのままに信じる、神の約束に信頼する、それは聖霊の働きであるのです。
- 信仰問答が「福音を通して聖霊が私たちのうちに起こしてくださる心からの信頼」と述べています。
- 神の約束に信頼するそれが信仰であり、この信仰は聖霊だけがもたらしてくれるものなのです。
- 聖霊の与えてくださる神の約束への信頼、これを持つことが信仰の急所です。
→今日は詩篇40篇を読みました。
- 「 主にのみ、わたしは望みをおいていた。
- 主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。
- 滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ/わたしの足を岩の上に立たせ/
- しっかりと歩ませ、わたしの口に新しい歌を
- /わたしたちの神への賛美を授けてくださった」。
→これは大きな試練、苦難の中にあって神さまにのみ望みを置き、助けを求め、救いを与えられた喜びが響いてきます。
- 試練、苦難にあるときに私どもに与えられている約束があります。
- 「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。
- 神は真実な方です。
- あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(コリント一10:13)。
- 試練は耐えることができる、忍耐して耐えるとき、神は逃れの道を用意してくださるとの約束がここにあります。
- 闇雲に助けてくださいと祈るのではなく、この約束に信頼して祈る、これが信仰ですね。
- あるいは「 神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ8:28)。
- すべてのことが益となるように神は導かれる、このことを信じて、苦難の中で、試練の中で、自分の果たすべきことを神の教えていただき、それに従う、これが信仰です。
→詩篇の続きです。
- 「わたしの神、主よ/あなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。
- あなたに並ぶものはありません。
- わたしたちに対する数知れない御計らいを/わたしは語り伝えて行きます」。
- 「神の数知れない御計らい」があるというのです。
- これは、神の約束と考えることができます。
- 神は色々な約束の言葉をもって様々な状況におかれた私どもを励まし導かれるのです。
- 神の約束に信頼して生きるとき、生ける神の導きを詩人は語り伝えていくのです。
→またこう続きます。
- 「あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず/焼き尽くす供え物も/罪の代償の供え物も求めず/ただ、わたしの耳を開いてくださいました」。
- 神は、私どもの耳を開かれるのです。
- 神の約束を聞くことができるように耳を開いてくださるのです。
- 私どもはうっかりすると「聞いても聞かず」の状態になりかねません。
- しかし神が神様の約束の言葉を聞くことができるように私どもの耳を開いてくださるのです。
→さらに「そこでわたしは申します。
- 御覧ください、わたしは来ております。
- わたしのことは/巻物に記されております。
- わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み/あなたの教えを胸に刻み」。
- ここの巻物は聖書のことです。
- 聖書には、私のことが書いてある、えっと思う表現です。
- 聖書は人間について書いています。
- 聖書を読むと、私のことが書かれていると感じるのです。
- 聖書の中に私どもの生き方を見いだすことができるというのです。
- 神の教え、それは私どもを祝福する一つの手段、恵みに他なりません。
→最後に、「悪はわたしにからみつき、数えきれません。わたしは自分の罪に捕えられ/何も見えなくなりました。その数は髪の毛よりも多く/わたしは心挫けています。主よ、走り寄ってわたしを救ってください。主よ、急いでわたしを助けてください。」。
- 詩人は自分の罪に打ち砕かれています。
- そして助けを求めています。
- 私どもも自分の罪に打ち砕かれることがあります。
- しかし聖書には、このような約束があります。
「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」。
- 私どもはもはや罪の奴隷ではない、罪に勝つことができるいとの約束です。
- 新約聖書に書かれている紙の約束、私どもが信ずべき神の約束をいくつか紹介しました。
- あなたがこれらの約束を確信し、この約束が私を生かしてくれると信じるなら、聖霊の導きを求めてください。
- 神の約束に対する心からの信頼は、聖霊が与えてくださるからです。
→福音において私たちに約束されていることすべて、それを私どもは信じます。
- あなたが色々な神様の約束に信頼して生きれば生きるほど、あなたの信仰生活は豊かになります。
- あなたは神のみ業を語り、あなたの口は神への賛美を歌うようになるでしょう。
祈り
恵みと慈しみの神、あなたの約束を真実なものと信じる信仰を与えてください。あなたの約束に信頼して生きる、心からの信頼を与えてください。あなたの約束こそ、私どもの歩みを支え導くものであることを教えてください。イエス・キリストの御名により祈ります。