自分の内にイエスが生きておられると公言することは簡単ではありません。公言すれば必ず質問が来ます。
- 自分の内にイエスがおられるとなぜ、わかるの。
- イエスが内におられたら、どんな感じがするの?
- イエスが内におられたら、どんな変化が自分の中に起きるの
答えれば、「えっ、それで」と言われるに違いありません。でも私は、イエスがうちにおられると告白したいと考えるようになりました。今回は、フィリピ書にある言葉です。使徒パウロは語ります。
フィリピ 1:21~23
わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。
けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。
この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。
パウロは二つのことの間で板挟みになっています。一方ではこの世を去ってキリストと共にいたいと熱望しています。他方で、世にあれば実り多い働きができます。どちらを選んだらいいか分からないというのです。
パウロは「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており」とあります。このパウロの心境を聞いて、こんな人がいるんだと最初思いました。このパウロの心境に、私も近づきたいと日々祈り願っています。
自分はなぜ、このような祈りをするのか、と考えたときに、イエスが私の内におられるからだと考えます。イエスが内におられる、それは信じる事柄です。
死んで神のもとに召され、イエスと共にいることを望みにできることは素晴らしいことだと思います。このような望みを自分が抱くのはなぜかと考えたとき、イエスが内におられるからだと信じるからです。私の今後の人生において、イエスに会うことができる、このこと以上に素晴らしいことはないと思います。