クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

いつ死んでもいい

 朝目覚めて血圧を測り終え、ふと思いました.「いつ死んでもいい」と。それで以前牧会していた教会の教会員の方が「私はいつ死んでもいいと思っています」と話されたことを思い出しました。この方のことについてはこのブログで「信徒の忘れられない言葉(2)」で書いています。約一年半前に書いています。その時の自分の気持ちも書いてあるので、今の自分の気持ちを比較してみました。最初に以前の気持ちを書いてみます。

(気持ち1)
 信じることには、疑いが伴うということです。私も復活する、神の国に迎えられると信じていますが、100%完璧に信じているわけではありません。絶対的な確信があるわけではありません。本当だろうか、とささやく声が聞こえないわけではありません。悪魔の声だと思います。

(気持ち2)
 この世への愛着。この世に70年以上生きてきました。積極的にこの世を去りたいという思いにはなれません。死にたいと思うほどの辛い状況にはありません。死後のことは不透明なので、今この世に生きていれば、ひとまず安心というような思いがあります。

 (気持ち1)に対しては、新しい視点で考えるようになりました。マタイ福音書28章の最後でイエス様は「私は天と地の一切の権威を授けられている」と語られました。イエス様が天と地の一切の権威を授けられていると信じるなら、イエス様の言葉を確信をもって信じるべきです。それで神の国は本当にあるのだろうか、ということを疑うことはしないようにしています。

(気持ち2)に対しては、パウロの言葉を重く受けとめるようになりました。

フィリピ 1:21~23
わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。 

  パウロは今、この世を去ってキリストと共にいたいと願っています。キリストと共にあることのすばらしさをパウロは知っています。このパウロの境地へ導いてくださいと私はいつも祈っています。そのせいかこの世への執着が少なくなったようです。それで「いつ死んでもいい」という思いが出てきたのかなと思いました。

 人は年を取れば一般的にこの世への執着がなくなっていくのではないかと思います。あるいは疲れているのかもしれません。でもまだ長生きしたいです。
「信徒の忘れられない言葉(2)」

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