「A長老、こんにちは」
「Bさん、こんにちは」
「パウロのことを少し考えてみました。パウロは復活したイエス様に呼びかけられ、それがきっかけで、それまでイエス・キリストを信じる者を迫害していたのに、キリストを宣べ伝える者に変えられました。そしてキリストを知ることのあまりの素晴らしさのゆえに、彼はそれまで誇りに思っていたものを屑のように見なすようになったと知りました。そして彼はキリストを誇ると書いていました」
「イエス・キリストとの出会いは、彼に天地がひっくり返るような大きな変化をもたらしたと思います」
「でも私は、彼が自分の弱さを誇るというのは、全く理解できません」
「そうですね、分かります。私もかつてそうでしたから」
「今はどうなんですか。変わられたのですか」
「はい、パウロに共感します」
「そうですか。パウロはキリストに出会ったから変わったんですよね」
「そうです。パウロはイエス様が救い主とは思っていませんでした。だからクリスチャンを迫害していました。しかし復活のキリストに出会いました」
「つまりイエス・キリストがメシア、救い主であると信じるように導かれたということですね」
「その通りです。もっと正確に言えば、イエスという人間がなぜ、メシア、救い主なのか、考えさせられ、メシアだと確信したと思います。イエスがメシアであると確信しなければ、宣べ伝えることはできませんよね」
「A長老。ではパウロはどのようにして確信するようになったのでしょうか」
「パウロは『わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです』と書いています。さらに『 しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して』とガラテヤの信徒への手紙で書いています。神の導きがあったことは確かです」
「それはそうですよね。キリストを信じる者を迫害していた人がキリストを宣べ伝える者になるのですから、何かきっかけがなければなりませんし、それこそ神の導きですね」
「そこでパウロの心に何が起きたかです。イエスがメシアならメシアであると納得できなければなりません。そして手がかりは聖書ですね」
「旧約聖書ですね」
「はい。当時の聖書と言えば、私たちが今手にしている旧約聖書のことです。パウロは律法に熱心ということは聖書を勉強していたといってよいと思います。ですから旧約聖書を読み、メシアについて考えたと思います。そしてイエスがメシアであると確信したのだと思います」
「読んで確信できるものなのでしょうか」
「聖書を新たな気持ちで読み直したと思います。特にメシアについて旧約聖書は何を語っているか、気をつけて読んだと思います」
「なるほど。それはそうですね」
「イエス様の弟子たちもイエス様が十字架で死んだ時は落胆しました。しかしイエス様が復活し弟子たちに現れ、天に帰られた後、弟子たちはイエス様はメシア、キリストであると宣べ伝えるようになりました。その時彼らは旧約聖書を引用しました。ちなみにメシアとは油注がれた者という意味で救い主を意味します。メシアをギリシャ語に訳すとキリストとなります。きっとパウロは聖書を何度も読み、神さまの御心を思いめぐらし、イエス様がメシア、キリストであることを悟るようになったのだと思います」
「ということは私たちにとっても旧約聖書を読むことは大切だということになりますか」
「その通りです。ある人は、旧約聖書は救い主を待望する書物、新約聖書は救い主を証しする書物と言いました。旧約聖書を知れば、救い主が何のためにこの世においでになったのか、理解が深まります。そのことは信仰生活に役立つはずです」
「それでパウロはどのようにしてイエス様をメシアと考えるようになったのでしょうか」
「具体的なことは分かりません。パウロの心に何が起きたのかは分かりません。でもうちの牧師先生が祈祷会の時に、話したことがあります。Bさんも知っていると思いますが、うちの祈祷会は最初は聖書の学びをし、次に皆で祈ります。その聖書の学びの時に牧師先生が話してくれました」
「何を話されたのですか。知りたいですね」
「パウロはキリストに出会った後のことを告白をしているというのです」
「告白ですか。どんな告白ですか」
「ローマの信徒への手紙で、自分のみじめさを告白しています」
「パウロは律法の義については非のうちどころのない者でしたと自信満々に語っていたのではないですか」
「そうです。その彼が自分は何と惨めなのかと告白しているのです」
「ローマの信徒への手紙のどこですか。教えてください」
「パウロは7章でこう言っているのです。『わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです』。つまりパウロは、自分は神の教えを実行したいと思っても、それを実行することができないと告白しているのです」
「何か驚きですね。あの自信満々のパウロはどこへ行ったのでしょうか」
「自分は律法を実行できない。それは自分の内に罪が住んでいるからだと言うのです」
「罪が住んでいる、どういうことですか」
「パウロはキリストと出会って本当の自分に気づいたのです」
「本当の自分ですか」
「そうです。そして彼は告白します.『わたしはなんとみじめな人間なのでしょう』。Bさんは、どうですか。自分はみじめな人間だと思いますか」
「いや、そうは思いませんが、あのパウロがそう思うのは驚きです。私は聖書を読んでも自分がみじめだとは今のところ思っていませんが、パウロは思ったのですね。このことを少し考えたいと思います。今日は家に帰ってローマの信徒への手紙を読んでみたいと思います。ありがとうございました」
「ではお元気で」