一昨日、県内にある教会で説教奉仕しました。
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以下は原稿です。
聖書 創世記22章16~18節
ローマの信徒への手紙1章1~7節
説教 神の福音
1.喜びの知らせ福音
→今日は説教の題を「神の福音」としました。
福音は「喜びの知らせ」という意味です。
主イエスが生まれた日の夜、天使たちが羊飼いたちに現れ、言いました。「恐れるな、わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを伝える」と言いました。
今日、大きな喜びを皆さんに伝えることができたらと願っています。
2.預言者が預言した福音
→今日の聖書の2節に
「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので」と書かれています。
「聖書の中で」とは、旧約聖書の中で約束されているという意味です。
預言者とは、神の言葉を語る人です。
預言者が神の約束として福音を語ったというのです。
聖書のあの箇所、この箇所を指摘して、イエス・キリストの救いを指し示していると語ることができます。
それらを踏まえた上で私は、旧約聖書全体を通して
神はメシアつまり救い主を遣わすと約束されている
と受けとめたいと考えています。
人間は救いを必要とする存在である、ということです。
3.人間の創造
→まず創世記の最初に目を向けます。
神が天と地を創造されたとき、人間を創造されました。
神はご自身にかたどり、ご自身に似せて人間を造られました。
人が造られたとき、
不思議なことにそこには男と女がいました。
造られた人間はひとりではなかったのです。
男と女がいた、それは何を意味しているのでしょうか。
人間は他者との関わりの中で生きる存在であることを示しています。
さらに人が神との関わりに生きることを教えています。
神に似せて造られたことは、人間が神と関わりをもって生きること、
神との交わりに生きることを意味しています。
では神が人間を造られた目的は何なのでしょうか。
→主イエスがある時、律法の専門家から、
聖書の戒めの中で最も重要な掟は何でしょうかと、
質問を受けたことがあります。
その時、主イエスは
最も重要な第一の掟は「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と答えられました。
第二の掟は「隣人を自分のように愛しなさい」。
これも重要であるとお語りになりました。
これから考えると、
人間が全身全霊をもって神を愛し、
互いに愛しあって生きることが人間を造られた神の目的と言えるのではないでしょうか。
→ところが創世記の3章を見ると、アダムとエバは
神が取って食べてはいけないと言われた木の実を食べ、
神の戒めを破ったことが書かれています。
神を愛する者は、神の戒めを守ります。
彼らは神の戒めを破り、神に逆らったのです。
神に対して罪を犯したのです。
神を敬わず、自分の思いに従って行動したことが分かります。
その罪に対する裁きとして神は彼らをエデンの園から追放しました。
神は罪を嫌われる方です。
→そして私たちが住むこの世界は
争いと混乱に満ち、平和がないという現実になっています。
なぜこうなったのでしょうか。
それは人間が自己中心的に生きており、
神を敬わず、隣人を愛さずに生きているからではないでしょうか。
つまり人間が、神に逆らい罪を犯しているからではないでしょうか。
最も身近な隣人は家族です。
家族を愛さない人たちも少なくないです。
愛するとは相手の人格を尊重することです。
相手の心を大切にすることです。
相手の心より自分の思いを優先するとき、
私たちも罪を犯しているのです。
→神は、御自分が造った人間の世界がどうなるのかをあらかじめご存じでした。
そこでこの歴史の中で人間を救う計画をつくられました。
人間が神を愛し、自分のように隣人を愛することができるようにする計画です。
人間を救う計画を神は天地創造の時に持っておられました。
その計画とは、
第一に地上にいる諸国民の中から、神の民を選び出すこと、
第二に救い主、メシアをこの世界に送ることです。
3.神の民イスラエル
→創世記12章で神はアブラハムという人物を選び出したことが書かれています。
神はアブラハムにこのような約束をされました。
創世記 22:18
地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。
あなたの子孫とは、救い主、メシアと解釈されます。
アブラハムの子孫から生まれる救い主、メシアによって地上の諸国民は祝福を得るとの約束です。
→アブラハムの孫のヤコブは神からイスラエルという名前を与えられました。
ヤコブは飢饉が起きたのでエジプトに移住します。
エジプトで彼の子孫が増えていき、
イスラエル民族と呼ばれるほどになりました。
人数が増えたことに脅威を感じたエジプトの王は、
イスラエルの民を奴隷にします。
イスラエルの民は奴隷となり、苦しい生活を何年も続けました。
そしてついに神に助けを求めて叫びました。
→神はモーセを指導者として選び、力ある業を行い、
ついにイスラエルの民をエジプト王の奴隷状態から解放しました。
イスラエルの民は神に導かれ、
自由に生きることのできる土地に向けて旅をします。
旅の途中、シナイ山の麓で神はイスラエルの民と契約を結びました。
神は、「私はあなたがたの神となる」と約束し、
イスラエルの民は「私たちはあなたの民となる」と約束しました。
ここに神とイスラエルの民との間に契約が成立しました。
ここにおいて、神を愛する民が誕生しました。
やがて全世界の人々に対して模範となる民の誕生です。
イスラエルは神の民として選ばれ、
神の民として生きることになりました。
「私たちはあなたを神とし、あなたの民として生きる」と約束したのです。
神との関わり、神との交わりに生きる神の民が誕生しました。
そして神は彼らにいかに生きるべきか掟を与えました。
その代表的な掟が十戒です。
十戒が与えられた目的は、人間が幸いな歩みをするためです。
「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」。
この戒めは驚くほど現代にも通用する戒めです。
ここに神の第一の計画、地上にいる諸国民の中から、神の民を選び出すことが実現しました。
→シナイ山の麓を出発したイスラエルの民は
自由に生きることのできる土地に導かれました。
→その後のイスラエルの民の歩みは、一言で言えば、
神の目に悪と見られることをする歩みでした。
つまり偶像礼拝をしたのです。
十戒の戒めを破ったのです。
第一の戒め
「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
第二の戒め「あなたはいかなる像も造ってはならない」。
→神は預言者と呼ばれる人物を立て、
イスラエルの民に、偶像を捨て、神に立ち帰るように促しました。
神は何人も預言者を立てイスラエルの民に語りました。
でも民は聞き従いませんでした。
イスラエルの民は、神の民であることを放棄したので、
ついに神は罪に対する裁きとしてイスラエルの国を滅亡させました。
→イスラエルの歴史で明らかになったことは、
人間は神に背き、罪を犯して生きる者だということです。
旧約聖書は、人間というものは神に対して罪を犯す者であることを伝えています。
人間が神を愛さず、隣人を愛さず、自分中心に生きていることを伝えています。
→神はイスラエルの国を滅亡させました。
普通なら、これでイスラエルの民は歴史から消えます。
しかしイスラエルは神に選ばれた民です。
神はいつの日か、イスラエルの国を再興させる、
その日が来ると預言者たちが語りました。
ここに救い主、メシアの到来を待ち望む希望が生まれました。
メシアの到来を神の約束として預言者たちは語りました。
4.神の御子
→次は神の第二の計画、救い主、メシアをこの世界に送ることです。
救い主の到来こそ、福音です。
3節で、福音は「御子に関するもの」であるとあります。
御子とは、「神の子」のことです。
→人間の歴史の中に現れたのはイエスという人物です。
彼は人々を教えました。
その教えには権威があり、人々を驚かせました。
またイエスは病人を癒やし、
悪霊に取りつかれた人から悪霊を追い出し、
力ある業を行いました。
人々からメシア、つまり救い主と期待されました。
しかし十字架につけられて死んでしまいました。
しかし驚いたことに三日目に神により、復活させられました。
それでイエスはメシア、救い主と信じられるようになりました。
ギリシャ語でメシアのことをキリストと言います。
そこでイエスはキリストと信じられ、イエスはキリストであるとの告白が生まれました。
この人こそ、私たちの救い主と主イエスの弟子たちは宣べ伝え始めました。
→ではどこに御子がいるのでしょうか。
福音は、御子に関するものと使徒パウロは書いています。
どういうことでしょうか。
→聖書が伝える神は、三位一体の神です。
つまり父なる神、子なる神、聖霊なる神がおられるわけです。
しかし3人の神がいるのではなく、一つの神であると私たちは信じます。
子なる神のことを御子、神の独り子、などと言います。
子なる神が人となり、イエスとしてこの世に現れました。
ここに神の第二の計画が実現しました。
→なぜ、イエスに関するではなく、御子に関するものなのでしょうか。
聖書にこんな言葉があります。
エフェソ1:4~5
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。
父なる神は天地創造のまえに、
救い主を送るという計画を持っていたのです。
天地創造の前に、
神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになったというのです。
→天地創造の前に三位一体の神は人間を救うための計画を造りました。
父なる神は子なる神、聖霊なる神と相談しました。
そして子なる神が人となり、救い主となること、
救い主となって最後には死ぬこと
これによって人間を罪から救う業が行われると話されました。
そして御子に救い主となってくれるかどうか聞きました。
父なる神は、子なる神の意志を重んじられます。
強制的に救い主になるように命令はしません。
それぞれが独立した人格を持っているからです。
→すると子なる神は、父なる神の計画を受け入れました。
子なる神、御子は了解したのです。
→そして時が満ちて御子は人となり、
イエスとして活動をしたのです。
御子は神です。神である方が人間になるのです。
さらに人間を救うために、十字架で死にます。
救い主を信じようとしない人間たちにより殺されるのです。
それを分かっていながら御子は、人となることを受け入れ、
十字架の死さえ、受け入れたのです。
→御子はなぜ死ななければならなかったのでしょうか。
御子つまり神の子でなければできないことがあったからです。
人間の救いは罪からの救いです。
罪は神に逆らうことですから、神はこれを許すことができません。
→人間が神との交わりに生きるためには、罪の解決が必要です。
罪を犯す者を神は交わりの相手として受け入れることができません。
旧約聖書には、人が罪を犯したとき、
罪の贖いたのめに動物のいけにえをささげるようにとの戒めがあります。
罪の贖いとは罪に対する神の怒りをなだめることです。
イスラエルの民は動物のいけにえをささげて神に赦しを求めました。
神は彼らを赦し、彼らの神としてイスラエルの民との交わりをもたれました。
→神は御子を救い主として世に送ることにしました。
人間を罪から救い、人間が神との交わりに生きるためです。
→そのために第一に必要なことは罪の贖いということです。
神は義なる神、正しい神ですから、罪を犯したままの人間を
ご自身との交わりに受け入れることはできません。
罪の贖いが必要です。
全人類の罪を贖うのです。
動物のいけにえでは間に合いません。
罪を犯した人間、罪を犯すかも知れない人間が自分自身を贖うことはできません
罪を犯したことのない者だけが、贖いをすることができます。
神の子が人となり、罪を犯したことのない人間として、
罪を贖うために犠牲となることが必要になります。
人となった御子が十字架の上で罪の贖いのいけにえとして死ぬとき、
罪の贖いの業が行われることになります。
それは罪に対する神の怒り、神の罰を一身に受けての贖いの死です。
神に対する神の怒りは、御子の上に注がれ、
その結果、罪を犯した人は赦しを得ることができるようになりました。
→人間を救い、人間との交わりを回復させたいとの父なる神の思いは、人間に対する父なる神の愛を示しています。
人となり、死をも受け入れた御子もまた、人間を愛しておられることを示しています。
父なる神も、子なる神も人間を愛しているのです。
5.救いの実現
→人は御子が自分のために罪の贖いの死を遂げてくださったことを信じる時、
罪赦され、さらに神の前に正しい者とされます。
そして神との和解を受けます。
人は、神との和解を受け、神との交わりに生きることが許されます。
神は私たちの父となってくださり、私たちは神の子として生きていきます。
神さまは人間を造られた目的、すなわち、神を愛し隣人を自分のように愛する歩みができるようにしてくださいました。
これは福音の「大きな喜び」の知らせではないでしょうか。
→この世が混乱し、争いに満ち平和がないのは、
すべての人が、神を愛し、隣人を愛することをしないからです。
すべての人が罪を犯しているからです。
しかし神は御子を世に送り人間を救われます。
キリスト者は神を愛し、自分を愛するように隣人を愛することのできる人間に変えられました。
エフェソ1:4~5
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。
イエス・キリストを信じる私たちは神の子とされ、聖なるもの、汚れのない者とされました。
神は私たちを、神を愛し、自分のように隣人を、身近な隣人である家族を愛することのできる者にしてくださいました。
→私たちは罪から救われ、
神を愛し、隣人を自分のように愛する者へと変えられました。
これが福音であり、「大きな喜び」の知らせです。
祈ります。