2024年4月14日、説教奉仕をしましたので、その説教を紹介します。
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ローマ 1章1~7節
説教 約束された福音
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0.導入
→ローマの信徒への手紙を取り上げて説教ます。
今日は「約束された福音」と題して説教します。
1.福音は約束されたもの
→2節にこう書かれています。
「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもの」。
→「福音」という言葉は、喜びの知らせという意味があります。
その喜びとは、救いの訪れの喜びです。
つまり救い主が現れ、救いの御業を行われたと告げるのが福音です。
福音が約束されているとは、救い主の登場が約束されているということです。
→預言者を通して約束されたもの、とあります。
文字通りに読めば預言者が救いの訪れについて語ったということです。
たとえば預言者イザヤは語りました。ちょっと長いですが、イザヤ53章の言葉を紹介します。
イザヤ 53:2~5
53:2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。
53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。
53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
→このイザヤの預言は、キリストの十字架を預言したものと理解されてきました。
この預言は、救い主がいつ現れるかは語りませんが、
救い主がどのような死に方をするのかを語っています。
救い主が死ぬというのは人間の常識に反するように見えます。
しかしイザヤは、将来現れる救い主の働きについて預言したわけです。
言うまでもありませんが、救い主をこの世に登場させるのは神です。
→そこで一つの疑問が生じます。
救い主が登場して人々を救うなら、
すぐに救い主を送ればよいのではないかという疑問です。
神は預言者を通して救い主を送ると約束しましたが、
なぜ約束し、救い主の到来を遅らせるのか。
すぐに救い主を送ればよいのではないか、との疑問が生じます。
→この疑問に対する答えは、
神には遅らせる理由があるのだと思います。
つまり神には計画があるのです。
さらに言えば、神が世界を創造し、人間を創造する時、
神には救いの計画があったと新約聖書に書かれています。
新約聖書は、約束が実現したという立場から書かれています。
その計画とは、エフェソの信徒への手紙1章に書かれています。
エフェソ 1:4
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
→私はこの聖書の言葉は大切な言葉だと考えます。
なぜならここには救いの目的が書かれているからです。
神は私たちを愛して、御自分の前で、
聖なる者、汚れのない者にしようとした、というのです。
救いとは、キリストを信じる者が、聖なる者、
汚れのない者になることだ、というのです。
旧約聖書にこのようなことが約束されているのでしょうか。
2.聖書の中で預言者を通して
→もう一度2節を読みます。
「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもの」。
「預言者を通して約束された」とあります。
すると私たちは旧約聖書のイザヤ書とかエレミヤ書とか、
その他の預言書を開いて、この神の約束を探すかもしれません。
先ほど読んだイザヤ書53章は、救い主がどのような死に方をするのかを預言したものということができます。
→「預言者を通して」という言葉は、
実は、旧約聖書全体で約束されていると考える方がよいと考えます。
ルカ福音書24章にある、エマオ途上の二人の弟子たちの物語です。
二人の弟子たちがエルサレムから、自分たちの村のエマオに向かって歩いています。
そこにイエスが登場し、二人に近づきます。
この二人の弟子はイエスが死んでしまったことに失望し
ていました。
なぜかというと二人は、イエスがメシアとして、
つまり救い主として、
イスラエルをローマの支配から解放してくれると期待していたのに、イエスは死んでしまったからです。
→そこでイエスは、二人の弟子に語りかけます。
ルカ 24:25~27
そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」
そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
→イエスは、モーセとすべての預言者から始めて、
聖書全体にわたり、御自分について
書いてあることを説明されました。
つまり救いを必要とする理由、救い主を必要とする理由、
それは聖書全体から明らかになると
イエスは教えられたことになります。
ですから「預言者を通して約束されている」とは、
聖書の中の預言者のあの言葉、この言葉を含めつつ、
聖書全体において約束されていると理解できます。
言うまでもありませんが、この場合の聖書全体とは、
旧約聖書全体ということです。
→使徒パウロもロマ書の3章で人は信仰によって義とされるという大切な教えを語るときに、このように説明します。
ローマ 3:21
ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。
「律法と預言者によって立証されて」。律法と預言者、これは旧約聖書を指していると言ってよいと思います。
信仰によって義とされるという教えは、旧約聖書に根拠があるとパウロは述べているわけです。
→そうすると旧約聖書がなければ、私たちは福音が何かを正しく知ることができないということができます。
3.福音理解の自己検証
→教会は福音を宣べ伝えます。
福音を宣べ伝えることは教会の第一の使命です。
そこで一つの問いが生じます。
教会は正しく福音を宣べ伝えているのか。
私たちが福音と信じているものは、旧約聖書が神の約束として待ち望む救いと同じなのかどうか。
教会の歴史においては、異端と呼ばれる人たちが登場します。
福音とは異なる教えを語りました。
福音を歪めたのです。
→聖書が語る福音を聖書から正しく読み取ることが大切です。
聖書が語る福音をそのままに受け取るにはどうしたらよいのでしょうか。
それは旧約聖書に示される約束をきちんと理解することです。
さもないと自己流の福音理解になってしまうことがあります。
自分の福音理解を吟味することは大切ですし、
そのために旧約聖書が語ることに耳を傾けることが大切となります。
4.旧約聖書が約束する救い
→旧約聖書が約束する救い、
あるいは旧約聖書が待ち望む救いとはどんな救いなのでしょうか。
→私は若いときに洗礼を受けました。
洗礼を受けたからには聖書を通読しようと決心し、
通読しました。
読みながら感じたことですが、旧約聖書は人間の罪を明らかにするものだと思いました。
イスラエルの民はなんで神に信頼せず、神の教えに従わないのかと思いました。
出エジプトの出来事、約束の地に向かうイスラエルの民の歩みを見て、そう感じました。
自分だったら神に信頼し、
神に従うのにと考えました。
その頃の私は若気の至りで、
自分はまともな信仰者であり、イスラエルの民のような不信仰に陥るような信仰者ではないとうぬぼれていました。
洗礼を受けたばかりの私は罪の理解が不十分でした。
→旧約聖書は人間の罪を描きだしています。
神は人間の罪を十分に明らかにするために
救い主をすぐにこの世に遣わすことはしませんでした。
イスラエルの歴史の中で、人間の罪が十分に明らかになるまで、
救い主を送ることを神はしませんでした。
旧約聖書は人間の救いとは、
罪からの救いであることを明らかにしています。
→旧約聖書を読むと分かることは、
神はイスラエルの民を神の民として選んだことです。
選びの目的は、イスラエルの民が、世界に向かって、
まことの神がおられることを伝えるためです。
→エジプトで奴隷であったイスラエルの民は、
神によって奴隷状態から解放されました。
神はイスラエルの民を自由に生きる地へ導かれました。
イスラエルの民はその地に移ってしばらくしてから、
自分たちの国をつくり、王を立てました。
→神は、イスラエルの民に十戒という戒めを与えられました。
イスラエルの民はこの戒めを守って生きるのです。
しかしイスラエルの民は十戒を守らず、神の前に罪を犯しました。
神は何人もの預言者をイスラエルの民に送り、
罪を悔い改め、神の教えに従うように
イスラエルの民に語りました。
しかしイスラエルの民は従わず、結局、神の怒りを受けて、
イスラエルの国は滅びました。
このような現実の中で、預言者たちは救いを持ち望んだのです。
→イスラエルの民は罪を犯し続け、イスラエルの国は滅びました。
イスラエルが待ち望む救いとは、国家の再興ではなく、
罪からの救いです。
罪の問題が解決しなければ、国家を再建してもまた同じ結果になります。
罪からの救い、それは罪が赦されるだけではなく、
十戒を守り、罪を犯さなくなることです。
神の前に神の民として生きることができるようになることです。
イスラエルの民が神の教えを守ることのできる者となってこそ、
イスラエルの国は確かなものとなります。
神の戒めを守ることができるようになって、
人は救われた歩みを確かにすることができます。
預言者はどのように救いを待ち望んだのでしょうか。
→預言者エレミヤの語ったことを紹介します。
罪からの救いということで重要な預言です。
最初に紹介するのはこれです。
エレミヤ 31:34
わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
→これはイエス・キリストの十字架の死、贖いの死を信じる者が罪赦され、義とされることを預言していると理解できます。問題は33節の言葉です。
エレミヤ 31:33
しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
→来たるべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約。
これはキリストによってもたらされる契約、
キリストを信じる者と神との間の契約です。
→さらに「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、
彼らの心にそれを記す」。
ここに救いの約束があります。
問題は、この言葉をどう理解するか、です。
神の律法が、私たちの胸の中に授けられ、心に記される」というのです。
私たちの心に神の戒めが刻まれるというのです。
これをどう理解するかです。
→イスラエルの人々は神から十戒を与えられました。
モーセが神から十戒を教えられ、民に教えたのです。
つまりイスラエルの民は耳で、神の教えを聞いたのです。
→しかしエレミヤの預言は、神が、その教えを信仰者の心に記すというのです。
どういうことでしょうか。どう思われますか。
神の教えが心に記されるは、これはたとえです。
何をたとえているのでしょうか。
→私たちが神の教えを尊び、自発的にそして自然に守ることができるようになることを意味しているのではないでしょうか。
イスラエルの民は神の戒めを守ることができず罪を犯し、
国は滅びました。
それなら救われるとは、神の戒めを守る者となり、
安心して神の前に生きることができるようになるということです。
世界に向かってまことの神がおられることを発信できるようになることです。
→もうひとつ大事な預言者の言葉があります。
イザヤ書61章1節。
この箇所についてはイエスご自身が言及しています。
→ルカ福音書4章にこう書かれています。
4:16~17
イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。
そしてイエスはイザヤ書61章1節の言葉を語ります。
イザヤ 61:1
主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。
読み終わった後イエスは言います。
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。
→囚われ人には自由を、つながれている人には解放を、とあります。これがイエスによって実現したというのです。
私は、これは罪を犯してしまう人間、罪に支配されている人間が
罪の支配から解放されることを意味していると理解します。
これも救われるとは、神の戒めを守って生きる者となることを意味していると言ってよいと思います。
旧約聖書は罪からの救いを罪の赦しだけではなく、神の戒めを人が守ることができるようになることと約束しています。
→新約のエフェソの信徒への手紙に書かれていた神の計画、それは信じる者が聖なる者になる、汚れのない者になることでした。
これは信仰者が神の教えを守る者になるということです。
このことこそ、旧約聖書が約束している福音と言うことができると思います。
罪からの救いとは、罪が赦されるだけではなく、
神の教えに従って生きる者になること、
このことこそ、旧約聖書が約束している福音です。