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隠退牧師 holala によるブログ

クリスマスに思う(2)待ち望まれる救い主

 旧約聖書にはイスラエルの民の歴史が書かれています。信仰という観点からの歴史です。時間的な流れから言うと、

・エジプトにおける奴隷状態からの神による解放
・神から与えられた約束の地に定住。
・偶像礼拝を行う。周囲の民族の侵略と支配に苦しむ
・悔い改め。支配からの解放。一時の平和。
・同上。この繰り返し
・周囲の民族の侵略に対抗措置として国家の建設。
・偶像礼拝をする王の登場
・預言者の警告
・イスラエルの国家の滅亡
・バビロンへ捕囚
・捕囚からの帰還

 イスラエルの歴史は偶像礼拝を行う歴史です。時に神が懲らしめを与え、また預言者は悔い改めを求める言葉を語りますが、イスラエルの王、民は悔い改めず国家の滅亡を招きます。

 イスラエルの歴史は人間の罪を描きます。人は罪を克服することができず、それどころか「私はあなたと共にいる」と神が言えば、私たちは自分で好きなように生きていきますと言って民は偶像礼拝を繰り返します。偶像礼拝とは言い換えると神なしに自分の思い通りに生きていこうとすることです。つまり自分を神とする生き方です。

 イスラエルの歴史は罪の虜(とりこ)になった人間を描いています。なぜ人間は罪を犯すのか。罪とは何か。人間には自分の思い通りに生きていきたいという欲があり、人から指図されるのを嫌うプライドがあります。神といえども指図されるのを人は嫌います。神なしに生きる、神を拒む、神を信じない、これが罪です。

 罪の中にある人間は、自分の思い通りに生きようとしますが、自分の思い通りにならない悩みの中におかれ、行き詰まります。旧約聖書は罪の捕らわれからの救いを待ち望みます。

 またイスラエルの歴史は神の愛を描きます。「私はあなたの神となる。あなたは私の民として生きなさい」と語りかけるのがイスラエルの神、聖書の神です。神との交わりに生きるよう、神は招くのです。イスラエルの民はエジプトにおける奴隷状態から解放されて神との交わり招かれました。しかし上に書いたようにイスラエルの民は神を拒み、神なしに生きようとしました。

 神は、イスラエルの民が悔い改め神に立ち帰ることを喜ばれる神であり、民が罪を悔い改めるときは喜んで赦される神です。そしてイスラエルの民が罪を犯すとき、すぐに罰したり怒ったりせず、悔い改めるのを忍耐して待つ神です。神はイスラエルの民を懲らしめるときがありますが、決して見捨てることをしない神でです。イスラエルの民を愛し、彼らを祝福する神です。

 神の戒めというのは、人間を祝福する手段です。神の戒めに従うとき、祝福が伴うのです。神は人を愛し、人に戒めを与えます。

 神さまの願いは、人が神を愛し、隣人を愛し、人が愛と平和に生きることにあります。そこにこそ祝福された人間の営みがあります。しかし人は自分の思い通りに生きていきたいとの欲に生きています。その結果、人の欲と欲がぶつかり、争い、対立から逃れることのできないのが人間の現実であり、この世界の現実です。また神なしに生きる人間には、恐れや不安が伴い、さらには思い煩いなど、さまざまな悩みがつきまといます。

 この人間の現実、世界の現実に救いをもたらすために神は救い主をこの世に送られます。旧約の預言者たちは、次のことを実現する救い主を待ち望んだのではないかと私は考えます。

  • 罪を犯した人に赦しを与えること。
  • 信仰者を神を愛し、神に信頼し、神に従う人にすること。
  • 自分の思い通りに生きたいとの欲に打ち勝つことができるようにすること。 

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