クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

信仰者の成長

教会を考える(6)信仰者を育てる

聖書の学びは信仰者を成長させます。しかし成長させる学びは、簡単ではありません。

教会を考える(5)信仰者を育てる教会

教会はキリスト者の信仰を成長させることが大切だと気づきました。

神の愛を知る(19)救いの到達点

神は、私たちを罪から救い、神との交わりに招いてくださいます。神は、私たちをどこへ導こうとされるのでしょうか。

人生航路の第二段階(40)救われて生きるとは

キリスト者にとって救われて生きるとは、キリスト者として成長することであると私は信じています。

人生航路の第二段階(38)キリストを信じる者への神の約束

イエス・キリストを信じる人は、イエス・キリストを結ばれます。イエス・キリストに結ばれたキリスト者には、神の約束が与えられています。

人生航路の第二段階(24)いのちのイメージ

いのちは生命力府溢れています。キリスト者は神さまから与えられた「いのち」の働きにゆだねて成長します。

人生航路の第二段階(23)放蕩息子のイメージ

ルカ福音書15章の放蕩息子の歩み。私たちの信仰成長の一つのパターンかもしれません。

人生航路の第二段階(17)成長するキリスト者

洗礼を受け、礼拝生活、信仰生活を続け、聖書を読み学び、み言葉に従う歩みの中で信仰者は成長していきます。

人間、罪深きもの(5/5)私のアイデンティティー

自分が罪深い者であることは忘れず、同時に神が私を神の子としてくださったことを喜び、私は神の子として歩みます。

完全な者になりなさい

使徒パウロは「完全な者になりなさい」と勧めます。驚くような勧めです。どう受けとめたらいいのでしょうか。

私が説教で使うたとえの紹介(4)種の成長のたとえ

説教で使いたいたとえの紹介。神さまはキリスト者の心に「神の子」という種を蒔かれます。

私が説教で使うたとえの紹介(3)おたまじゃくしのたとえ

私が使うたとえはオタマジャクシのたとえです。オタマジャクシとカエルは見た目は全く違いますが、オタマジャクシはカエルになります。

私が説教で使うたとえの紹介(2)テレビのたとえ

私が使うオリジナルのたとえの第二弾。テレビの修理の話しです。

神の戒めは何のためにある?

神の戒めは何のためにあるのでしょうか。どうしたら守れるようになるのでしょうか。

A長老とBさんの対話(2)キリスト者は新しい存在

キリスト者は新しい存在であることをめぐっての会話

教会内での信仰の継承

教会における信仰の継承とは何でしょうか。信仰の証しを行い互いに信仰の成長をする仕組みを考えてみませんか。

「子供」から「若者」へ

信仰者としての成長段階としての「若者」は御言葉を行う人、キリストの力により強い人です。

神の教えに従うということ

神の教えをを知っていることと神の教えを守っていることとは別です。この区別をはっきり知ることが大事だと思います。

信仰者の衣替え

信仰者にも衣替えが必要です。古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着るのです。

子と父と若者(続きの続き)

成熟した信仰者とはどのような人を言うのでしょうか。神の救いの計画に生きる人です。

子と父と若者(続き)

真個須屋の成長の段階を示す、子と父と若者。聖書の言葉は思いめぐらすと面白い。

子と父と若者

聖書は信仰者の成長には段階があることを伝えています。子、若者、父で段階を表現しています。

信仰者の成長

信仰者は成長する存在であることを聖書から確認します。少しでも成長することを喜びたいです。

肉と霊の戦いに勝利する

肉の思いに勝利し、罪に打ち勝つために必要な二つのもの。信仰の決断と、御言葉を喜ぶこと。

神の教え・戒めの受けとめ方

神の教え・戒めは何のために与えられているのでしょうか。それは私たちの祝福のためだと考えます。

信仰者の直面する二つの現実

キリスト者が直面知る二つの現実があります。文字通りのリアルな現実。今ひとつは霊的現実。霊的な現実を信じるところから信仰生活が始まります。

勝利の道は目の前に

罪との戦いに勝利の道が用意されています。必要なのは決断です。

キリスト者は決断をして生きる

信仰者の心の中の戦い。勝利する道は信仰者の決断です。

わたしはなんとみじめな人間なのでしょう

わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。

霊に従うか、肉に従うか

キリスト者として生きようとすると葛藤が起きます。神の教えに生きようとする思いとそれに反発する思いが心の中でぶつかるのです。