クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

私が説教で使うたとえの紹介(2)テレビのたとえ

 イエス様はたとえを語られました。それで私もたとえを使うことがあります。私のオリジナルなたとえです。第2番目のたとえはテレビのたとえです。これは最近使い始めました。

 この時代、多くの人がテレビを見ていると思います。情報源として、娯楽として私たちの生活に欠かせなくなっています。そこでもしテレビが映らなくなったらどうするでしょうか。

 先日わが家でも、突然テレビの画面がちらつくというか、何が映っているのか分からなくなりました。しばらくしたら普通に見えるようになりました。何か不具合があることは分かります。そして次は、長い時間映らなくなりました。しかしまた見えるようになりました。まもなく故障するだろうと思い、買い換えることにしました。もう長いこと見続けてきたテレビでしたので。

 もし買い換えないとしたら、テレビを修理に出すと思います。そしてちゃんと見ることができるようにすると思います。不具合、故障を修理します。

 そこで人間です。創世記によれば、神さまはご自身に似せて人間を造られました。神さまは自分が造った世界をご覧になり、極めてよかったと思われました。人間もまた神さまの目に「極めてよい」存在でした。しかしアダムは神さまの命令に背き、取って食べてはいけないとされた木の実を食べ、罪を犯しました。そして旧約聖書は、人は罪を犯す者であることを語っています。

 この罪を犯す人間を神さまがご覧になったらどのように思われるのでしょうか。「極めてよい」とは思わないと思います。神さまは救い主を人間に送るのですから、人間は問題ある存在です。言い換えると人間には不具合がある、あるいは故障していると言うことができます。だから人は罪を犯すのです。神さまの目からすれば、人間が罪を犯すことはあってはならないことです。少なくとも、人が罪を犯すことを神さまは望んでいません。

 神さまは救い主をこの世界に送りました。イエス・キリストです。何のためでしょうか。人間を罪から救うためです。では罪から救うとはどういうことでしょうか。それは人間を修理することです。人間を修理するという表現はほとんど使わない表現ですが、救いを考える上で良い表現だと思います。修理とは元のよい状態に戻すこと、回復することを意味します。

 人間を修理するとはどういうことでしょうか。人間が創造されたときの「神に似せて造られた」ときの人間にする、それが修理することです。罪からの救いとは、「神に似せて造られた」ときの人間に戻すことを意味するといってよいと思います。

 そしてこの世界にたった一人だけ、神の似姿で生きた人がいました。つまりキリスト者にとって目標となる人がいました。イエス・キリストです。ですから人間を修理するとは、人間を救うとは、イエス・キリストに似た者に回復することです。言うまでもありませんが修理するのは神さまです。

 テレビの場合は修理が終わったものが私たちのもとに戻ってきます。しかし人間の修理は、その人間の人生をかけて行われます。それは言い換えるとその人の信仰が生涯をかけて成長を続けるということです。

 罪が赦されたとしても、人は罪を犯すという不具合、故障を持っていることに変わりはありません。ですから救いとは、罪の赦し以上のものです。罪を犯さない人間にすることが修理です。修理をなさるのは神さまです。人間は自分で自分を修理することはできません。そして神さまは強制的に人間を修理なさいません。神さまに修理をしてほしいと願う者だけを修理します。修理をして欲しいと神さまに伝えなければなりません。そうした上で神さまの助けを得ます。

 救いとは、神の似姿に回復すること、イエス様に似た者に成長していくことです。私はテレビの修理のたとえが好きです。救いとは何か、端的に示していると思うからです。

ローマ 8:29
神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。

エフェソ 1:4
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。 

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