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隠退牧師 holala によるブログ

神の愛の大きさ

 受難節の中にあって、今マタイ福音書26章を読み黙想をしています。先週主の晩餐の箇所を読みました。イエス様は言いました。

「これは罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」。

 この契約の血で、二つの聖書箇所を思い出しました。一つは出エジプト記24章。これは神さまがイスラエルの民と契約を結んだ箇所です。神さまはあなたがたの神となると約束し、イスラエルの民は神さまの戒めを守り、神の民となると約束し、ここに契約が成立しました。もう一つ思い出したのはエレミヤ書31章です。

エレミヤ31:34
わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。 

  ここには神さまがイスラエルの民と結ぶ新しい契約が語られています。私たちはイエス・キリストのおかげでここに書かれている新しい契約を神さまと結んだと理解します。ここで神さまはイスラエルの民の悪を赦すと約束します。つまりイエス・キリストを信じる人はその罪が赦されるということです。そして神さまは「再び彼らの罪を心に留めることはない」と言われます。神さまはイスラエルの民の罪を赦し、その罪を心に留めることはないと約束されるのです。つまり神さまは私たちの罪を赦し、その罪を思い出すことはないというのです。私はここに神の愛と神の強い意志を感じます。

 強い意志とは、神さまはイスラエルの民との契約に生きようとすることです。罪を犯すイスラエルの民との契約を破棄しないのです。神さまはイスラエルの民の罪を赦すと語り、その罪を心に留めないと語ります。神さまが心に留めないからこそ、イスラエルの民も安心して、あなたを神としますと告白することができ、そのように生きることができます。神さまは罪を犯す者を決して見捨てないとの意志を感じます。

 イエス・キリストを通して神さまは、私たちと契約を結んでくださいます。つまり私たちイエス・キリストを信じる者との交わりを神さまは強く求めておられます。

 神さまの交わりの相手である私たちはどのようなものかと言えば、罪を犯す者であることです。繰り返し罪を犯す者です。神さまは、その私たちの罪を赦し、それを心に留めることはないというのです。そして私たちとの交わりを求めるのです。これが何を意味しているのか、たとえで説明します。

 ある夫婦がいて、夫婦の一方が伴侶を裏切る行為をしたとします。裏切られた方が、離婚を選択してもそれは当然だと多くの人が考えるでしょう。自分を裏切った伴侶と夫婦として共に生きていくことに困難を感じるのは理解できます。しかし裏切られた方の人が、裏切った伴侶を赦し、伴侶の裏切り行為を心に留めず、裏切りがあたかもなかったかのように伴侶を愛して夫婦関係を続けるとしたらどうでしょうか。裏切った伴侶と共に生きていくことを大切にするのです。これはなかなかできることではありません。

 神さまの愛は、このように不実な者を愛する愛です。夫婦の場合は、自分を裏切ったたった一人の伴侶を愛し続けることになりますが、神さまの愛は、無数の人に向けられています。

 自分を裏切った伴侶を赦し、その罪を心に留めず、つまりなかったことにして、伴侶を愛して共に生きていくことを選択する愛は、相当な愛だと思います。それがどれほど大きな愛なのか、私には想像できません。そのような愛を自分が持てるという確信はないからです。私たちはたった一人の自分の伴侶に対して、そのような愛を持てるかもしれません。でもそれはたった一人の伴侶だからです。私たちは、このような愛を多くの人に対して持つことができるでしょうか。会社の上司や部下、近所の人たち、友だち、知人、自分の子供に対して持てるでしょうか。

 そして思います。神さまの愛の大きさは私たちの想像を超えた大きなことを。しかし神さまの愛を自分なりに具体的に考え、表現していくと、神さまに愛されていることの喜びが湧いてくると思います。

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