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隠退牧師 holala によるブログ

主の晩餐

 今日はマルコ福音書 14章22~26節をディボーションしました。

マルコ 14:22~24
一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である」。 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」。

 弟子たちはイエスに言われるがままに裂かれたパンを食し、杯からぶどう酒を飲みました。でもそれが何を意味しているのか、分からなかったと思います。そして主イエスが十字架で亡くなり、復活され、天に帰られた後、弟子たちは、パンを食べ、杯を飲んだことの意味を考えたと思います。手がかりは旧約聖書にあります。

 血については三つのことを考えることができると思います。主イエスは「これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血」と言われました。私も弟子になったつもりで思いめぐらします。

(1)「多くの人のために流される血」

 第一に「多くの人のために流される血」です。旧約聖書には神がイスラエルのために与えた掟の集合(律法)に罪を犯した場合、動物の犠牲をささげ、罪の赦しを求めるようにとの掟があります。動物を屠り、その血をもって罪の償いとします。そこで十字架で流された主イエスの血は、人々の罪の赦しのために流された血と理解することができます。「多くの人のために」は罪の赦しを暗示しています。主イエスを救い主と信じる人は犯したすべての罪が赦されます。人々の罪の赦しのために主イエスの血は流されました。

 ではそもそもなぜ、罪の赦しが必要なのでしょうか。神はイスラエルの神であり、イスラエルは神の民です。両者は関わりをもって生きる関係にありました。たとえとして夫婦関係を考えます。他方が相手に対して失礼なことをしたとします。するとよい夫婦関係を保つことは困難になります。その場合、失礼なことをした人は相手にあやまり赦しを得る必要があります。そうしなければ夫婦関係を維持するのが困難になります。それと同じ理屈で、神の戒めを破り罪を犯した場合、罪の赦しを得ないと、神はその人によい顔を向けることができなくなります。人は罪を犯したとき、神に赦しを求める必要があります。それはイスラエルの民が神との関係に生きるためです。そしてそれはキリスト者も同じです。

 動物の犠牲を献げる代わりに、主イエスご自身が犠牲となり血を流してくださったので、主イエスを信じる者はみな、罪が赦されます。こうして神との間に平和な関係を保つことができます。

(2)契約の血

 第二に、この血は「契約の血」だと言われます。旧約聖書の出エジプト記に神とイスラエルの民との間で契約が結ばれたことが書かれています。その時、イスラエルの民に動物のいけにえの血が振りかけられました。この血によって契約が成立しました。

 神とイスラエルの民とのあいだに結ばれた契約において、両者が約束をします。神はイスラエルの民の神となると約束します。イスラエルの民は、神の民として生きることを約束します。双方が約束し契約が成立します。信仰とはこの契約に生きることと言うこともできます。神の民としてふさわしくない行動をしたときは、罪を犯したことになり、赦しを求める必要が生じます。そのために先に書いたように、イスラエルの民はいけにえを献げて罪の赦しを求めました。

 主イエスの血は契約の血と言われます。神はイエス・キリストを信じる者との間に契約を結ばれます。この契約は神とイスラエルの民との契約に似ています。神はイエス・キリストを信じる者の神となることを約束し、イエス・キリストを信じる者はキリスト者として生きることを約束します。また神はキリスト者に彼が犯した罪の赦しと永遠の命を与えることを約束します。洗礼を受けたキリスト者は神の子とされ、神の子として生きていくという約束をします。

 私たちは礼拝の中でパンとぶどう酒をいただくとき、罪の赦しの恵みを確認し、神の子として生きる恵みを確認します。パンとぶどう酒を口の中で味わっていることが確かなように、罪の赦しの恵みと、神の子として生きる恵みは確かであると確認します。キリスト者は罪を犯すことがありますが、神はキリスト者を神の子として取り扱い、キリスト者と関わってくださいます。神の子として生きることが許されている、これは大きな恵みです。

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コスミレ 散歩道 2022.3.17