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隠退牧師 holala によるブログ

人生航路の第二段階(11)赦しの先にあるもの

 パウロはローマの信徒への手紙3章で神の義について語ります。イエス・キリストを信じることによって、信じる人には神の義が与えられる、あるいは神はイエスを信じる者を義となさる、などの表現があります。

ローマ 3:25
神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。

 神はキリストを罪を償う供え物となさったとあります。だからイエス・キリストを信じる人は、その犯した罪はすべて赦されるという表現が出てきて当然だと思うのです。罪が赦されてこそ、私たちは救われますし、義とされます。

 礼拝の説教でキリストの十字架が語られる時、ほとんどの場合、罪の赦しが語られます。それなのにパウロは罪の赦しを語りません。なぜなのかと思います。

 ある時、気づきを与えられました。パウロは赦しの先を見ていたのです。パウロはキリストを信じる者の罪が赦されることは知っていました。しかし赦しを語ることはしませんでした。そこに留まりませんでした。罪を赦された人はどうなるのか、そこに彼は注目していたのです。

 旧約聖書にあるレビ記で、ある人が罪を犯した時、罪を償うための供え物をささげます。こう書かれています。

レビ記 4:27
一般の人のだれかが過って罪を犯し、禁じられている主の戒めを一つでも破って責めを負い、犯した罪に気づいたときは、献げ物として無傷の雌山羊を引いて行き、献げ物の頭に手を置き、焼き尽くす献げ物を屠る場所で贖罪の献げ物を屠る。

レビ記 4:31
祭司は主を宥める香りとしてそれを祭壇で燃やして煙にする。祭司がこうして彼のために罪を贖う儀式を行うと、彼の罪は赦される。

 罪が赦されるとどうなるのでしょうか。

 イスラエルの民は神の民と呼ばれていました。彼らは神の民として歩みます。神は彼らの神です。イスラエルの民は神との関係の中に生きているのです。でも罪を犯せば、神との関係に問題が生じます。神は罪を犯すものを喜ばれません。神との関係に危機が訪れます。神は罪を犯す者を見捨てるかもしれません。だから罪を犯した者はいけにえをささげ、罪の赦しを受け、神との関係を正常なものにします。

 パウロは神との関係を意識しているのです。キリスト者にとって生きるとは、神と共に生きること、神との関係に生きること、神を意識して生きること、神と向き合って生きること、神の前に生きること、そして神の教えに生きることです。神の教えに従う時も、その教えに込められている神の思い、神の願いを意識します。なぜ神はその教えを与えるのか、それを考えます。

 「神さまの教えはむずかしいよね~、守るの無理よね~」などと言い訳をする人がいます。このような人は、神さまのことは全然考えていません。その教えを神さまはなぜ与えたのか、御心を考えていません。自分のことしか考えていません。信仰とは神さまとの交わりに生きることを知らないと思います。

 罪の赦しに注目すると、罪を赦されてよかった、で終わってしまう可能性があります。つまり自分が神との関係、神との交わりに生きることを見失う可能性があります。パウロがなぜ赦しを語らなかったのか分かった気がしました。

暑い夏!