クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

人生航路の第二段階(12)神との関係

 パウロは罪の赦しの先にあるものを見ています。イエスの語られた放蕩息子の物語は赦しの先にあるものを見せてくれます。

 ルカによる福音書15章にある放蕩息子の物語。ある人に二人の息子がいました。弟の方が財産の分け前を下さいと父に頼み、父は二人に財産を分けました。弟は、受け取った財産の全部を金に換え、遠い国に出かけ、そこで放蕩の限りを尽くします。やがて生活に行き詰まります。彼は我に返り、父のもとに帰る決心をします。「私は息子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにして下さい」と語る覚悟を持って父のもとに帰ります。

 彼がまだ遠く離れていたのに、彼を見つけた父親は走り寄って首を抱きます。彼は「息子と呼ばれる資格はありません」と言いましたが、父は彼を息子として受け入れ、祝宴まで開きます。

 「息子と呼ばれる資格がありません」との告白は罪の告白と言えます。父親は帰ってきた息子を喜び受け入れます。財産を使い果たしたことなど何も言いません。つまり息子を赦し受け入れたのです。

 これは罪を犯した者がイエス・キリストを信じる時、神は彼を義とすることに似ています。神はイエス・キリストを信じる者の罪を赦し、正しい者と受け入れるわけです。放蕩息子も父親によって何のとがめを受けることなくつまり赦され、息子として歓迎されます。

 かつて財産を分けてもらい、父親のもとを離れた弟息子でした。父との関係を自分から切ったのです。しかし行き詰まり、息子と呼ばれる資格はないので雇い人の一人となる覚悟で父のもとに戻りました。財産を無駄遣いし、息子と呼ばれる資格がないのに、帰ってきた息子を父は息子として受け入れました。父との関係を捨てて父のもとを離れた息子なのに、帰ってきたら、父は彼をわが子よと受け入れました。ここに父と子の関係が回復したのを見ることができます。

 かつて父との関係を切った息子は、父のもとを離れ、財産を使い果たした罪を赦され、父と子の関係に今一度生きることを許されました。罪の赦しは何のためにあるのかと言えば、神との関係の回復のためにあることを教えています。

 パウロは、神との関係を見ていました。だから罪の赦しは語りませんでした。私たちキリスト者は、神とどのような関係に生きているのか、自分の信仰の姿勢を見直すことは大切なことだと思います。罪を赦されてよかった、で終わってしまうなら、真のキリスト者として歩んでいるのかどうか、疑問視されるかもしれません。信仰とは神との関係に生きることですから。

成長した稲