クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

聖なる者、汚れのない者

 明日は久しぶりに説教奉仕。ローマの信徒への手紙8章26~30節をテキストにしての説教。

神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。(ローマ8:29)。

これを読んですぐに思い起こす聖書の箇所がある。エフェソの信徒への手紙の1章4~5節。

天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。

 天地を創造する前に、神さまには計画があった。それはキリストを信じる者を聖なる者、汚れのないものにしようとの計画。キリストを信じる者を神の子にしようとする計画。この計画をどれほどのクリスチャンが知っているのだろうか。神の計画はキリストを信じる者が聖なる者、汚れのない者になることにある。途方もない計画なのだろうか。

 神は戒めを信じる者に与え、これをしっかり守れとむち打ち、キリストを信じる者を聖なる者、汚れのないものにしようとされるのだろうか。キリストを信じる前の人間はみな罪を犯していた。そんな人間が戒めを与えられ、むちで脅されて聖なる者、汚れのない者になれるはずはない。

 神は恵みを用意された。信仰者は神との交わりに生きることを許された。神との交わりは人格的な交わり。神は私の心を大切にしてくださり、私は神の御心を大切にする。しかし神を思わず、自分のことしか考えない自己中心との戦いはある。神の救いの恵みは、私を新しい人間に創造し、私の内に聖霊を住まわせ、神の恵みの支配下に私をおく。

 あの放蕩息子は家に戻り父から祝宴を開いてもらった。彼は父の愛を知った。財産を使い果たし、戻ってきた彼を赦し、責める言葉は一つも言わないで息子として受け入れてくれた。あの息子はそれからどのように生きたのだろうか。父と一緒に生きることを喜んだにちがいない。

 そして僕も父なる神と共に生きることを喜ぶ。その時、神の戒めは慕わしいものとなる。神の言葉は戒めだけではない。私たちを慰め、励まし、約束を与えてくれる。希望を指し示してくれる。生きることを励ましてくれる。だから僕は神の言葉によって生きる。神の言葉に従って生きる。その歩みは、100点満点ではない。僕は何点でもいいと思っている。10点でも、5点でも。足りないところがいくらあったとしても、神の言葉を喜んで生きるなら、僕は聖なる者、汚れのない者だ。そして神の子だ! 

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チカラシバ