聖書 ヘブライ人への手紙 9:23〜28
説教 罪を取り去るキリスト
→私たちは、人の心を傷つけるようなことをした時、あやまります。
- 相手の心を傷つけたままにしておけば、その人との関係が悪くなります。
- これは夫婦の間でも、親子の間でも、そして
- すべての人間関係に当てはまることだと思います。
- 人の心を大切にしないこと、聖書はそれを罪と呼びます。
- 罪を犯したときは、あやまることが大切です。
- 人間関係が破れ、それが回復できないのは、辛いことです。
→このことは神と人間の関係についても言えます。
- 人はしばしば、神というのは、願いごとをする相手だと考えます。
- 神は、私が困ったときに助けてくれる存在、そう考える人が多いです。
- キリスト教信仰は、神は願いごとをするだけの相手ではありません。
- 神は私どもを愛してくださり、私どもの心を大切にしてくださる方であると信じます。
- だから私どもも、神の心を大切にします。
- ここにお互いの心を大切にする関係が生まれます。
- これがキリスト教信仰です。
- お互いの心を大切にする関係、これを愛し合う関係と言います。
- 私どもの信仰においては、神を愛することは最も重要な教えです。
- 神を愛するとは、神の心を大切にすることです。
→あなたが神を信じるとは、神があなたの心を大切にしてくださると信じることです。
- そしてあなたも、神の心を大切にすることです。
- 神との関係に生きる、これが信仰です。
- 神との交わりに生きる、これが信仰です。
- これは私が言うことではなく、聖書が述べていることです。
- コリントの信徒への手紙一1章9節にこう書かれています。
- あなたがたは神の子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。
→今日は3月18日、日曜日です。
- あまり耳にすることが少ないですが、「教会歴」というものがあります。
- 教会の暦、教会のカレンダーです。
- 私どもは、教会歴をあまり意識はしていません。
- 教会の暦の中で、いちばん有名なのはクリスマスです。
- まもなく、キリストの復活を祝う復活祭、イースタが到来します。
- そして今は受難節と呼ばれる時期です。
- 週報の表紙には、「受難節第4主日」と書いてあります。
- 今日は受難節の4回目の主の日だというのです。
- そしてこの受難節では、主イエスの十字架での苦しみ思いめぐらすことが勧められます。
- 受難節というのは、キリストの十字架を思う季節とされます。
- 今日からイースタまでキリストの十字架の死の意味について説教をします。
→イエス・キリストは十字架の上で死にました。
- これは人々が目撃し、聖書の四つの福音書にも書かれていることです。
- 聖書は、この出来事を、キリストが自分をいけにえとして献げたことだと書いています。
- 24節で、「キリストは、まことのものの写しに過ぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったのです」とあります。
- 26節では、「ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り去るために現れてくださいました」とあります。
- この地上には、聖所と呼ばれるものがあり、祭司がそこでいけにえを献げました。
- そして天にも、聖所があり、
- キリストはそこで自分をいけにえとしてささげたというのです。
- 地上において、キリストは十字架の上で処刑されました。
- これは人の目が見たことです。
- 人の目には見えませんが、キリストは同時に天において、
- 28節によれば、キリストは、多くの人の罪を負うために
- ただ一度、身を献げられたとあります。
→イスラエル民族というのは、神に選ばれた民、神の民でした。
- 彼らは、神と共に歩むべく、神の民に召されたのです。
- そしてまことの神がおられることを世界に示す使命を与えられたのです。
- 神と共に歩むために、神はイスラエルを助け導くことを約束されました。
- そしてイスラエルは、神の戒めを守ることを約束しました。
- イスラエルの民は、神の心を大切にして歩むように
- 地上にいる多くの民の中から選ばれたのです。
- そして神は、イスラエルの民を愛し、一人一人の民を大切にするのです。
- もしイスラエルの民が神に逆らい、神の心を踏みにじることをしたとき、
- 神にあやまらなければなりません。
- そのために神は、地上に、神が住まわれる場所を造るように命じました。
- 最初は、それは幕屋と呼ばれるものでした。大きなテントです。
- そして後に神殿が造られました。
- 神に仕える祭司は、神にいけにえを献げる務めを果たしました。
→イスラエルの民が罪を犯したら、いけにえを携えて祭司のもとに行くのです。
- そして祭司に、いけにえをささげてもらうのです。
- 祭司はいけにえを殺し、その動物の血を幕屋の入り口の前にある祭壇に注ぎます。
- そして神の赦しを得るのです。
- そして祭司の中でいちばん偉い大祭司は、一年に一回、
- イスラエルの民全体のために、神にいけにえを献げます。
- 25節で「大祭司が年ごとに自分のものではない血を携えて聖所に入るように」
- とあります。
- 大祭司は、いけにえの血を聖所の中、奥にある祭壇に注ぐのです。
- そしてイスラエルの民全体のために、神の赦しをいただくのです。
- このように神の赦しを得て、
- 神との交わりに生きる、それが神の民イスラエルでした。
- それは、神とイスラエルの関わりの歴史を描いたものです。
- 一般の歴史書とは異なります。
- イスラエルの王についての評価は、神に従う王だったか否かで、決まります。
- 王としての国内政治をどう行ったのか、外交をどう行ったのか、経済を繁栄させたのか、
- そういう業績は関係ないのです。
- ですから、通常の歴史の本ではないのです。
→私が最初に旧約聖書を読んだとき、
- 何でイスラエルの民は、こうも神に対して罪を犯すのか、
- 何で、神に素直に従わないのか、と思ったものでした。
- 旧約聖書に書いてあるのは、イスラエルの罪の歴史です。
- 彼らが神を無視し、神の教えを守らず、
- 他の民族が信じている神を礼拝したりします。
- 神の心を大切にするよりも、自分の心だけを大切にして生きたのです。
- 神の心を大切にしないで自分の力で生きていこうとする、それを不信仰と呼びます。
- 神を信じながら、神の心を大切にしないのです。
- 神との交わりに生きることをしないのです。
- 夫婦関係になぞらえれば、相手の心を考えないで結婚生活をすることです。
- 交わりの拒否、これが不信仰、そして罪です。
→神との交わりに生きることをしないイスラエルの国はやがて滅びます。
→神がイスラエルに送ったメシア、
- それは大国の支配からイスラエルを解放するメシアではありませんでした。
- 罪から民を解放するメシアでした。
- そしてそのメシアは、自分を天にある聖所で罪のいけにえとしてささげたのです。
- 24節に「まことのものの写し」とありますが、まことのものとは天の聖所のことです。
- その写し、コピーが地上に造られた聖所のことです。
- イエス・キリストは救い主です。
- 十字架で死にました。
- 天の聖所で、ご自身を罪のいけにえとして献げられた方です。
→イスラエルの民は罪を犯したとき、動物をいけにえとして献げました。
- 大祭司も一年に一回、動物のいけにえをささげます。
- 動物のいけにえが献げられたとき、神は、罪を犯した人の罪が清められたと見ます。
- 犯罪を犯した人が有罪であるにも関わらず、無罪と見なされるようなものです。
- 神はいけにえを献げる人の罪をないものとするのです。
- その人を清い者と見なすのです。
- 罪を犯した人の心は変えられていません、また同じような罪を犯します。
- 罪を犯した人は繰り返すのはやめようと思うのですが、
- つい同じ罪を繰り返してしまいます。
- 人間は、もう二度とすまいと思っても、
- また行ってしまう弱さ、頑なさを持っているのです。
→イスラエルの民全体が皆、罪を犯します。
- そこで大祭司は、一年に一度、つまり毎年、民全体のためにいけにえをささげます。
- しかし、キリストのいけにえは、一回限りのものでした。
- いけにえが献げられる時、いけにえは殺されます。血が流されます。
- つまりいけにえの命をもって、罪を償うわけです。
- 動物のいけにえの場合、その血は罪を犯した者の心を実際に
- 罪から清めることはありません。
- 同じ罪を繰り返さないように心を清めることはしません。
- しかし神は、その人の罪を赦し、その人を清められた者と見なします。
- しかしキリストの血は、キリストを信じる者の心を実際に清めるのです。
→9章14節には、「ご自身を傷のないものとして神に献げられたキリストの血は、
- わたしたちの良心を死んだ業から清めて、
- 生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか」とあります。
- キリストの血は私たちの罪を犯す汚れた心を清くするのです。
- これは実際のことなのです。
- キリストを信じる者の心が変えられるのです。
- 清められるのです。
- 10章の10節では、「ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、
- わたしたちは聖なる者とされたのです」。
- あなたがキリストを信じたのなら、あなたは聖なる者とされています。
- あなたは聖なるものです。
- あなたの心は罪から清められたのです。
→ここに一つ問題があります。
- 聖なる者とされたと言われても、そうは思えないという現実があることです。
- 自分の心が変えられているように思えないということです。
- 神に逆らうようなことを考える心があるのです。
- そこで何をすれば聖なる者になれるのだろうかと考えるのです。
- やはり神の教えを守れば、いいのではないか、
- 神を愛し、隣人を愛すれば、心が清くなるのではないかと考えます。
- でもなかなか神と隣人を愛することができず、
- 自分の心は清くないと思い、そこでとどまってしまうのです。
- 何かをすれば心が清くなるのではありません。
- 心を清くするために人間ができることはありません。
- 心の清さは恵みとして与えられるのです。
→信じると現実が後からついてくるのです。
- 心が清くされたと信じたら、ああ、清くされたんだという実感がついて来るのです。
- 神がいると分かったら、神を信じるのではないのです。
- 神がいると分かるという現実があるから、信じるのではないのです。
- 神を信じるから、神がおられると分かる経験をするのです。
- 神がいると分かる現実を待っていたら、神を信じる時は来ません。
- 信仰が先です。現実は後からついてくるのです。
- これは信仰の原理とでも言うべきものです。
- 「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)。
- 「あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました」(ヨハネ一3:5)。
- 「神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、
- 今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、
- 罪から解放され」(ローマ6:17)。
- 救い主イエス・キリストは、私どもの罪を取り除き、
- 私どもを罪から解放してくださるお方なのです。
→「私は罪深いものです。でも罪赦され、感謝です」とおっしゃる人がいます。
- 謙遜な思いから出ている言葉だと思います。
- しかし私どもはもっともっと先に行けるのです。
- 罪が赦されるだけではないのです。
- あなたは罪から清められるのです。
- あなたは、あなたを悩ます罪から解放されるのです。
- その罪を犯さなくなるのです。
- キリストが命まで捨てられたのは、あなたの罪を取り除くためです。
- 罪を赦すだけなら、動物のいけにえで十分なのです。
- 動物のいけにえは人間の心を清めることはできません。
- あなたの心を清めるために、キリストは自分をいけにえとして献げられたのです。
- あなたの心から罪を取り除くために、キリストは自分をいけにえとして献げられたのです。
憐れみをもって私どもを救いに導かれる父なる神様
あなたは御子イエス・キリストを十字架につけられました。
御子という尊いいけにえは、
私どもの罪を赦すだけではなく
私どもを罪から解放する力を持ついけにえであったと信じます。
私どもは信仰の現実を見るよりも、感覚で捉えることのできる現実を見てしまいます。
たとい実感できなくても、イエス・キリストが自らをいけにえとして献げられたのは、
私どもを罪から自由にするためであったと信じることができるように助けてください。
聖霊のお働きにより、信じることができるようにしてください。
そして神様を賛美するものとしてください。
あなたが私どもを愛し、救いを与え、あなたとの交わりに招いてくださったことを心から感謝し、あなたをたたえます。
イエス・キリストの御名により祈ります。