2022-09-01から1ヶ月間の記事一覧
イエス・キリストを信じた人に与えられる救いの恵みは罪の赦しであり、さらに義とされます。これに続いて与えられる神さまの救いの恵みは「新生」です。
キリスト者にとって救われて生きるとは、キリスト者として成長することであると私は信じています。
聖書が語る罪について考えていて、ふと思いました。モーセの十戒の戒めはなぜ、今あるの10の戒めなのかと。
神さまが人間を創造されたとき、人間は神さまの目に良い存在でした。しかし現実の人間には一つ問題があります。それは人間の自然本性の腐敗です。
先週は頭痛に悩みました。ストレスが原因らしく、ストレス発散のために、山里に出かけ、ウォオーキング。
イエス・キリストを信じる人は、イエス・キリストを結ばれます。イエス・キリストに結ばれたキリスト者には、神の約束が与えられています。
信仰とは「神さまの約束を信じて生きること、だから神さまは信じる者を義とする、これが私が推理する答えです。
イエス・キリストを信じる者は神の義を与えられるとあります。ではなぜ、神は信じる者を義と認められるのでしょうか。
今日は録画しておいた、イギリスの故エリザベス女王の葬儀を見ました。
自分は死んだら無になると考えて、平然と日々を生きることができる、そんな人がいることをあらためて知り、人間って色んな人がいることを思いました。
悔い改めは、同じ罪を繰り返さないという決心だけではなく、神さまの御心に生きることを大切にするという決意でもあります。さらに言えば、自分第一の生き方から神第一の生き方に転換することです。
今日はうれしいことがありました。探していたものが見つかったのです。それは宗教改革者ルターが語った言葉です。
罪の赦しを考えるときに大切なことは、罪の赦しは最終目的ではないということです。罪の赦しは「神との和解」を目指しています。
神さまは、神の言葉を信じるアブラハムの信仰を義としました。信仰とは、神さまの恵みを受け取る管のようなものです。管を通って恵みが私たちのもとに来ます。
ローマ 3:10~11 正しい者はいない。一人もいない。 悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。 神を探し求める者とはどんな人なのでしょうか。
神さまがイエス・キリストを信じる者を義と認める、正しい者と見なす、これが信仰義認の教えです。そもそも信じるとは何を信じることなのでしょうか。
信仰によって義とされたことを本気で信じるための出発点は「信じる」とは何を意味しているかを知ることです。キリスト者は事実を大切にしますが、事実に基づいてる生きるのではなく、信仰によって生きます。
主イエスにつながって受け取る最初の恵みは、信仰によって義とされることです。私は、この教えをどれほどのキリスト者が本気で信じているのか、と疑問に思っています。
私たちは主イエスがご自身を犠牲にして私たちに与えてくださる恵みを受け取ることによって私たちは主につながります。
最近讃美歌の歌詞が心に響くようになりました。うれしく思っています。今日は313番を歌いました。
「たしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」。この言葉で大事なことは、主イエスが私につながってくださるので、私たちも主イエスにつながることができるということです。
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」(ヨハネ15章4節)。主イエスの素晴らしい約束です。