クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

人生航路の第二段階(31)信仰義認(2)

 イエス・キリストを信じる者は義とされる、これは基本的な教えです。でも本気で信じているキリスト者は少ないのではないか、と私はひそかに思っています。そしてこのことについて、心を痛めています。

 聖書の教えには疑問がつきまといます。たとえば、義とされた信仰者が罪を犯したら、どうなるのでしょうか。信仰者は全く罪を犯さなくなるということはありません。繰り返し罪を犯します。それでも神は信仰者を義とするのでしょうか。あるいは義としたことを取り消すのでしょうか。取り消さないとしたら、それはなぜでしょうか。取り消さないなら、信仰者は罪を犯しても安心することになるのではないでしょうか。罪を真剣に悔い改めることをしなくなるのではないでしょうか。

 たとえばこのような質問が出てきます。これらにきちんと答えた上で、信仰によって義とされることを説教しないと、中途半端になります。

 他方、完璧な説教ができる人はいません。いつも不十分にしか説教できないのが現実です。説教の不十分さが、聞き手の信仰の成長につながらないとしたら残念です。それが私が心を痛める理由です。説教者もまた一人の信仰者です。説教者の説教は説教者の信仰の成長に応じたものとなります。

 信仰によって義とされたことを本気で信じるための出発点は「信じる」とは何を意味しているかを知ることです。キリスト者は事実を大切にしますが、事実に基づいて生きるのではなく、信仰によって生きます。

 何を言いたいのでしょうか。キリスト者は残念ながら罪を犯します。これは事実です。キリスト者は生きている限り罪を犯します。さらに言えば、キリスト者は罪深い人間です。これも事実です。

 罪の本質は神をないがしろにし、神を敬わないことにあります。これが本質的な罪です。こういう心が人間の心にあります。これを罪深いといいます。このような心から罪が具体的な行動となって現れます。アダムとエバが、神さまから禁じられた木の実を採って食べたことは、人間の罪深いことを教えています。

 聖書が告げる信仰は、神との関わり、神との交わりに生きる信仰です。神とのお付き合いです。神の御心を大切にしない人は、神との交わりに生きているとは言えません。キリスト者といえども、神より、自分の心を大切にしがちです。自分第一です。神よりも自分を優先するという誘惑に勝利することはなかなかむずかしいです。

 キリスト者も罪を犯しますし、罪深いのです。これは事実です。しかし聖書はイエス・キリストを信じる者を神さまは義とすると告げます。自分は罪深いし罪を犯すと考える人間にとって自分が神の前に正しい者と認めてもらえるというのはある意味信じがたいことです。それは事実に反するからです。そして実感することができません。

 事実に基づいて生きる人は、義とされていることを本気で信じることができないと思います。しかし本来のキリスト者は、聖書の言葉、神の言葉を信じて生きる人です。事実は無視しません。事実は認めます。その上で、神の言葉、ここではイエス・キリストを信じる人を神は義と認めてくださることを信じて生きていきます。

 私は自分が罪を犯すこと、罪深いことを認めます。その上で、神さまが私のことを義と認めてくださること、正しい者と認めてくださることを信じます。

 私は空想に生きているのでしょうか。妄想に生きているのでしょうか。信仰によって生きているのでしょうか。

ローマ 1:17
福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 正しい者、つまり神さまから義とされた人は信仰によって生きるとあります。何はともあれ、神さまは自分のことを正しい者と認めてくださっている、そのことを思い、喜びませんか。

ヤブラン 奈良市吉城園