主イエスにつながって受け取る最初の恵みは、信仰によって義とされることです。神さまはイエス・キリストを信じる人を正しい者と見なす、とおっしゃるのです。「信仰義認」という言葉があるように、とても有名な教えです。これは神さまの宣言そして福音を宣言するものです。
しかし私は、この教えをどれほどのキリスト者が本気で信じているのか、と疑問に思っています。それにはもちろん理由があります。その理由は礼拝において祈られる祈りにあります。私が所属している日本基督教団の諸教会では、役員あるいは長老と呼ばれる方が礼拝の中で祈りをされることがあります。毎週の礼拝の中で「罪を赦していただき感謝します」という祈りは、どの礼拝でも祈られます。しかし「イエス・キリストを信じて義とされたことを感謝します」という祈りはほとんど聞いたことがありません。
なぜでしょうか。それはおそらく実感が伴わないからだと思います。信仰者としての自分の心には悪しき思い、罪の思いが湧いてくるし、時に罪を犯すし、到底自分が正しい人間とは思えないので、義とされたことを感謝するという祈りが出てこないのだと思います。
「義とする」の意味は、神さまがキリスト者を正しい者と見なすという意味であって、キリスト者を正しい者に造り変えたという意味ではありません。プロテスタント教会の礼拝で、信仰によって義とされることが説教される場合には、キリストを信じる者を神さまは義と見なすと説教されると思います。しかし自分の有り様を見て、義とされていると信じるのにためらいを感じるのでしょうか。多くのキリスト者が本気で信じていないように思います。
それは私が以前牧会していた教会において、また引退していくつかの教会で説教奉仕をしたとき、「私たちは罪を赦された罪人です」と祈られるのを何度も聞きました。神さまが義と認めると言ってくださるのに、自ら自分は罪人というのです。
使徒パウロが書いた手紙の出だしは興味深いです。
ローマ 1:7
神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ。コリント一 1:2
コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ。フィリピ 1:1
神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロと、兄弟テモテから、コリントにある神の教会と、アカイア州の全地方に住むすべての聖なる者たちへ。
パウロはクリスチャンを「聖なる者」と呼んでいます。コリント教会宛の手紙を読むと、コリント教会には様々な問題がありました。つまり信者たちが罪を犯していることが想定されます。それなのにパウロは、「聖なる者たち」と呼びます。
神さまは罪を憎み、罪を罰するお方です。この神さまが「私は罪人です」と自ら語るキリスト者の祈りを受け入れてくださるのでしょうか。
私はこのような「私は罪人です」との祈りを聞くと心を痛めます。その理由については明日、書きます。