クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

キリストの復活の恵み

 今コリントの信徒への手紙の一を読み続けています。うまいタイミングで14章読み終わったところで受難節に入り、マタイ福音書で受難記事を読みました。イースタを迎え、コリント書を読み始めました。15章はキリストの復活を語ります。

 コリント教会には死者の復活などないと主張する人がいたようで、12節~19節でパウロは、その主張に対して反論しています。論理的な反論をしています。

 まず、死者の復活はないという相手の主張を認め、死者の復活はないと仮定したらどうなるのかを考えます。死者の復活がなければキリストは復活していません。するとキリストは復活したというパウロの宣教は無駄になるし、聞いて信じた人たちの信仰も無駄になります。さらには神がキリストを復活させたと偽りを語ったことになり、自分たちは神の偽証人になると語ります。さらにキリストの復活がないなら、あなたがたは今なお罪の中にあることになると語ります。その上、キリストの復活を信じて眠りについた人たちは滅んでしまったことになるとも語ります。

 もちろん、パウロはキリストの復活を信じています。復活を信じないととんでもない結論になることを述べ、パウロは反論しました。キリストの復活を信じるか信じないか、それは個人の自由です。しかし教会は、キリストの復活を信じる者たちが集まる信仰共同体です。

 私はこの箇所を読んで、17節に注目しました。「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今なお罪の中にあることになります」。この「今なお罪の中にある」に注目しました。言い換えると、キリストの復活があるなら、あなたがたは罪の中にいないという意味になります。キリストの復活を信じる私たちは、今や罪の中にいない、罪の支配の下にはいないとなります。

 私たちは洗礼を受け、復活したキリストに結び合わされ、罪から解放されました。罪の償いのための供え物としてのイエス・キリストの死により私たちは罪の赦しを受けることができます。そして復活したキリストに結ばれ、私たちは罪の支配から解放されました。もはや罪の奴隷ではありません。罪に打ち勝つことができるようになりました。

 しかし、福音は罪の赦しであると福音を狭く理解している傾向が教会内に多くあるように思います。それは隠退した後、いくつかの教会で礼拝説教奉仕をした時に感じました。礼拝の中で長老の方たちが祈る祈りを聞いて、ああ、福音は罪の赦しという理解に立っているのだなと思わされたことです。言い換えると福音とは罪の赦しという説教がなされていることを意味します。福音は罪の赦しだけではありません。 

ローマ6:17~18
しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。

 ヨハネ 8:31~32
イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。

  罪から自由にされることを知らないキリスト者は救いの恵みを十分に味わっていないことになります。 

祈り
天の父なる神、復活の主イエス・キリストは、私たちを罪から解放し、自由を与える方であることが広く宣べ伝えられますように。

 

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