クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

十字架のつまずきを越えて

昨日、大阪の森小路教会で説教奉仕をしました。
新約 ローマの信徒への手紙6章1~11節
説教題 「十字架のつまずきを越えて」

森小路教会のサイトで説教を聞くことができます。

説教を聞くにはここをクリック

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原稿は以下の通りです。

 

→使徒パウロは語りました。

「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。

すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」。

 

→使徒パウロはこのローマの信徒への手紙3章で、

人はイエス・キリストを信じることによって義とされると語りました。

クリスチャンになった方は、

十字架につけられたイエス・キリストを信じたわけですから、

十字架につまずくことなく信仰を得たということができます。

しかしキリストの十字架の恵みは、

私たちを義とすることにとどまりません。

キリストの十字架の恵みは

私たちを<罪から解放する>のです。

あなたは罪から解放されるのです。

「あなたは罪から解放される」、

これを聞いてどう思われるでしょうか。

これも十字架の救いの恵みです。

もし罪からの解放を信じないなら、

信じられないと言い続けるなら、

あなたは十字架につまずいたことになります。

そうならないように、今日も聖書から福音を聞きましょう。

→6章1節

「どういうことになるのか。

恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」。

イエス・キリストを信じる人は義とされる、これは神さまの恵みです。

この神さまの恵みを得るために、罪を犯そうではないか、

と考える人がいたのかもしれません。

あるいは、信仰義認の教えは人々に

罪を犯してよいとそそのかす危険な教えであるとの

批判があったのかもしれません。

これに対してパウロは、2節で「決してそうではない」と語ります。

罪に対して死んだ私たちが、

どうしてなおも罪の中に生きることができるのでしょう、

と語ります。

 

→私たちは、罪の赦しの恵みを得るために

罪を犯そうなどとは考えていないかもしれません。

しかし、罪を犯したが赦しを与えられて感謝だ、

罪を犯したが赦しを与えられて感謝だ、

と罪を犯しては赦される、

ということの繰り返しの中に生きているとしたら、

私たちは罪の中にとどまっていることになるのではないでしょうか

 

→パウロは、罪の中にとどまるということは

あってはならないと語ります。

あるいは罪の中に生きることがあってはならないと語ります。

なぜなら、

キリストの救いの恵みは私たちを罪から解放するからです。

そこでパウロは語ります。3節。

「あなたがたは知らないのですか」。

パウロは知らないことを責めているわけではないと思います。

むしろはっきりと知って欲しいと願っているのだと思います。

→話を進める前に一つ確認しておきたいことがあります。

キリスト者である私たちの前には

二つの事実があることをお知らせします。

第一の事実は、この世のだれもが認める事実です。

今日の天気が晴なら、だれもが「今日の天気は晴」と言います。

天気が晴れていることはだれもが認める事実です。

 

→第二の事実は信仰に関わるものです。

たとえば、神の存在。

この世のだれもが神の存在を認めるわけではありません。

しかし私たちキリスト者は神の存在を信じます。

神が存在する、これは信仰者が信じる事実です。

信仰者が信じる事実、これを霊的な事実と呼ぶことにします。

ナザレ生まれのイエスは救い主である、これは霊的な事実です。

イエスは死者の中から復活した、これも霊的な事実です。

キリスト者は聖書が語ることを霊的な事実として信じます。

 

→3節で「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たち」とあります。

洗礼を受けてキリスト者になった人たちは、

キリスト・イエスに結ばれているとあります。

キリスト者はキリストに結ばれている、これは霊的な事実です。

私たちが洗礼を受けたとき、私たちはキリストに結びつけられます。

キリストに結びつくという霊的な出来事が起きたのです。

私たちはキリストに結びつけられたという霊的事実を信じます。

キリスト者はイエス・キリストに結ばれた人です。

これはキリスト者にとって根本的な霊的事実です。

 

→3節から4節。

「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。

わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、

その死にあずかるものとなりました」。

キリストは十字架の上で死にました。

そこでキリストに結ばれている私たちも死んだというのです。

これは私たちが霊的に死んだという意味です。

キリスト者は洗礼を受けたとき、

キリストに結び合わされて死んだのです。

これは霊的な事実です。

私たちにとって信仰とは、霊的な事実を信じることです。

 

→4節の続き.「それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」。

キリストは神の大いなる力によって

死者の中から復活させられました。

私たちもキリストに結ばれて新しい命に生きる者とされました。

私たちはキリストと共に死んでキリストと共に復活したのです。

この私たちの死と復活は、霊的な出来事です。

パウロは、キリスト者は洗礼を受けてキリストに結ばれ、

キリストと共に死に、

キリストと共に復活したと語っているのです。

キリスト者は、霊的に見れば死んだのです。

しかし今や新しい命を与えられて生きる者となりました。

キリスト者は霊的に死にましたが、霊的に生きる者となったのです。

 

→洗礼を受けてキリスト者となった人は、キリストと共に死んで、

キリストと共に生きる者にされました。

もう一度言います。

洗礼を受けてキリスト者となった人は、キリストと共に死んで、キ

リストと共に生きる者にされました。

キリストの死と復活は、私たちに無関係な出来事ではなく、

私たちの出来事そのものでもあるわけです。

キリスト者はキリストに結びつけられているからです。

キリストの復活は、死を越える希望を与えるだけではなく、

信仰者を、生まれ変わらせるものだったのです。

→そこで、私たちがキリストと共に死んだことについてさらに聖書が語ることに聞きます。

2節では、「私たちは罪に対して死んだ」とあります。

ここで知るべきことがあります。

罪に対して死んだという時の「罪」は一種の力を意味します。

つまり私たちに罪を犯すように働きかける力を意味します。

罪は力、これも霊的な事実です。

 

→創世記にアダムとエバが神さまの教えに逆らい、

取って食べてはいけない木の実を食べました。

あの物語において、

蛇はまさに罪を犯すように働きかける力の象徴です。

そしてもう一つ確かなことは、

彼らは自ら手を伸ばして

禁じられた木の実を食べたことです。

罪は霊的な力であり、私たちに罪を犯させる悪しき霊的な力です。

私たちが罪を犯すのは、

私たちに悪い心があり、頑なな心があるからですが、

同時に、この罪の力も忘れてはなりません。

この罪の働きかけがあるから、

私たちは罪を犯さない人にはなれないのです。

 

→この罪の力についてパウロは7章でこう語っています。

「わたしは、自分のしていることが分かりません。

自分が望むことは実行せず、

かえって憎んでいることをするからです。

そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、

わたしの中に住んでいる罪なのです」。

私は神の教えに従いたいと願っている。

でも私は従うことができず、

それと反対のことをしているというのです。

それは私の中に住んでいる罪のせいだというのです。

私たちに罪を犯すように働きかける罪の力というものがあるのです。

 

→そこで2節と11節です。

そこには「わたしたちは罪に対して死んだ」とあります。

この場合の罪は霊的な力、

罪を犯すように働きかける罪を指しています。

この罪の力に対して、私たちが死んだ、というのです。

どういうことでしょうか。

それは罪がどんなに働きかけても、

死んだ人には何の影響も与えることはできません。

死んだ私たちに罪が働きかけても効果はないということです。

つまり罪は私たちに働きかけますが、

私たちに罪を犯させる絶対的な力を失ったのです。

これは大切な霊的事実です。

罪は私たちに働きかけますが、

私たちに罪を犯させる絶対的な力を失ったのです。

 

→6節に「私たちの古い自分」とあります。

この古い自分は罪の働きかけに勝つことができず、

負けてしまう自分を指しています。

もし私たちがどうしても罪に勝つことができないのなら、

それは私たちが罪の奴隷であり、

罪に支配されているからです。

これも霊的な現実です。

しかし私たちが罪に対して死んだことにより、

罪は私たちに対して絶対的に支配する力を失ったのです。

 

→6節「わたしたちの古い自分が

キリストと共に十字架につけられたのは、

罪に支配された体が滅ぼされ、

もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」。

キリスト者はもはや罪の奴隷にならないのです。

 

→キリストに結び合わされたキリスト者は、

キリストと共に古い人が死んだのです。

それは何のためなのでしょうか。

ここで「罪に支配された体が滅ぼされるため」とあります。

人が罪を犯すのは体を持っているからということができます。

罪は、この体に働きかけるのです。

体を持つ私たちは命に限りがあります。

命の危険が身に及べば、人は恐れを抱きます。

体をもつとは、能力に限界を持つことを意味します。

すると人は物事を自分の思い通りにすることができず、

先行きに不安を感じたり、思い悩んだりします。

体を持つ私たちは、色々な欲を持ちます。

それゆえ、誘惑にあいます。

罪は私たちの体を利用して私たちを支配し、私たちに罪を犯させるのです。

体を持つ私たちは罪に支配されていたのです。

 

→しかしキリストに結ばれ、キリストと共に死んだとき、

この罪に支配されたからだが滅ぼされたとあります。

罪に支配されたからだは滅び、罪の決定的な力は失われたのです。

 

→7節では、死んだ者は、罪から解放されているとあります。

罪はキリスト者に対して絶対的な力を及ぼすことができなくなりました。

そこでキリスト者は罪から解放されました。

これは、とても、とても、とても大切な霊的な事実です。

罪は私たちを絶対的に支配することができなくなったのです。

その結果、私たちはもはや罪の奴隷ではなくなったのです。

罪に打ち勝つことができるようになったのです。

 

→罪の支配は終わったのです。

しかし罪の働きかけはあります。

その働きかけは絶対的なものではなく、私たちは勝利できるようになったのです。

キリストに結ばれた私たちが新しい命を与えられて生きるとは、

罪に打ち勝って生きることができるようにされたということです。

私たちは罪に打ち勝って生きることができます。

これも霊的な事実です。

 

→聖書に書かれている興味深いお話しを紹介しましょう。

出エジプト記に書かれている物語です。

イスラエルの民はエジプト王の支配の下で奴隷として

つらく、苦しい生活をしていました。

彼らはエジプト王の奴隷でした。

そして自分の力で奴隷状態にある自分を

救うことはできませんでした。

奴隷状態にある自分を

自分の力で解放することはできませんでした。

そこで彼らは神に助けを求めて叫びました。

 

→神はイスラエルの民に二つのことを語り、約束しました。

  • 彼らをエジプトから解放すること、
  • そして自由に生きることのできる土地に導くことです。

 

→そして神は約束通り、

イスラエルの民をエジプト王の支配から解放しました。

そのために神は大いなる奇跡をいくつも行いました。

それはエジプトに大きな被害をもたらしました。

エジプト王は、この被害が続いたら、

自分たちは滅びてしまうかも知れないと恐れ、

イスラエルの民を解放することにしました。

神はイスラエルの民をエジプト王の支配から解放しました。

 

→この出来事はイエス・キリストの十字架を

指し示していると言えます。

つまり神はイエス・キリストの十字架を通して、

信じる者を罪の支配から、解放するのです。

信じる者を罪の奴隷状態から解放するのです。

実に救いとは、解放であり自由です。

出エジプトの出来事は、

キリストによる救いを指していると私は信じています。

だからこそ聖書に記録され、残されていると私は信じています。

 

→神はイスラエルの民に

自由に生きることができる土地へ連れて行くと

約束していました。

イスラエルの民はエジプトを出て、

約束の土地目指して旅を始めます。

ところがエジプト王は、

イスラエルを自由にしたことを後悔しました。

そこで軍隊を率いて、イスラエルの民を連れ戻そうとします。

イスラエルの民が海の近くで宿営しているとき、

エジプト軍が迫ってきました。

イスラエルの民はどうしたでしょうか。

彼らは非常に恐れ、動揺しました。

そこでイスラエルの指導者モーセは言います。

「恐れてはならない。落ち着いて、

今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。

あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、

もう二度と、永久に彼らを見ることはない」。

そして神はイスラエルのために、エジプト軍を滅ぼしました。

イスラエルの民は、エジプト王の支配から完全に解放されました。

このことは、罪の力は私たちに働きかけますが、

神さまが私たちに勝利を与えてくださることを示しています。

→私たちは罪に対して死に、

罪の支配から自由にされました。

罪の奴隷状態から解放されました。

キリストに結ばれ、新しい命を与えられました。

洗礼を受ける前後で、

私たちは何の変化も実感しなかったと思います。

しかし霊的な面では、

私たちの罪に支配された古い人が死んで、

罪から解放された新しい人が生きることを始めたのです。

このような霊的な出来事が起きたのです。

 

→このようにキリスト者は新しい人として生きるので、

罪の中に留まることができるわけがないと

パウロは書いたのです。

罪を犯しても赦してもらえる、感謝だ、というような所に

とどまっていることはできないのです。

神さまは私たちを罪から自由に生きる世界に導いてくださいました。

 

→11節の言葉を読みます。

「このように、あなたがたも自分は罪に対して死んでいるが、

キリスト・イエスに結ばれて、

神に対して生きているのだと考えなさい」。

「考えなさい」とパウロは命じています。

すぐに信じられなくてもいいのです。まず考えるのです。

ここからキリスト者の真の歩みが始まります。

罪から解放された歩みが始まります。

もし皆さんが、1ヶ月間、毎日この箇所を声を出して読んだのなら、

きっと罪からの解放を信じるように導かれると思います。

 

→聖書に基づき、十字架による救いの恵みについてお知らせしました。

キリストの十字架につまずくことがありませんように。

罪からの解放の福音を心から信じることができますように。

このような救いを備えてくださった神さまをたたえます。