クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

信仰者の直面する二つの現実

 キリスト者が直面する現実には二つの現実があると思います。一つは霊的現実。もう一つは実感できる現実。リアルな現実で、文字通りの現実です。霊的現実を信じるところから信仰生活が始まると言うことができます。

 昔イスラエルの民はエジプトにおいて奴隷として苦しい生活をしていました。彼らはその苦しみの中から神に助けを求めました。神は指導者モーセを選び、イスラエルの民をエジプトから解放し、乳と蜜の流れる肥沃な土地へ導くと約束されました。神はイスラエルの民を自由にし、豊かな土地での生活を約束されました。

 ここでイスラエルの民は二つの現実に直面します。一つは、自分たちは奴隷であるというリアルな現実、実感できる現実、文字通りの現実です。もう一つは、自分たちは自由であるという現実。自由で豊かな土地に暮らすという現実。今はまだ現実化していません。しかしやがて神によって実現する現実。これを霊的現実と言います。

 神は大いなる力を発揮し、イスラエルの民をエジプト王の支配から解放し、約束の地に導くべく彼らを荒野の旅を通して助け導き、イスラエルの民を約束の地に連れて行きました。神の約束は現実となりました。霊的現実は実現しました。

 信仰者は神が約束することを信じます。必ず実現すると信じます。信仰者が信じる神の約束を霊的現実と呼ぶことができます。荒野を旅したイスラエルの多くの民は、実は困難が起きるたびに神に文句を言い、モーセに不平を言い、神の約束を信じませんでした。しかし神はイスラエルの民を約束の地に連れて行きました。

 神の約束はキリスト者にも与えられています。イエス・キリストを信じる人はイエス・キリストに結ばれ神の子とされました。これは霊的な現実です。「あなたは神の子です」と言われても、自分はふさわしくないと人は思うでしょう。しかしキリスト者としての生活をしていくと、段々神の子として成長し、神の子と呼ばれるのにふさわしい人になっていくのです。

 神さまは、すでにイスラエルの民が約束の地で自由に豊かに暮らすのを見ています。そしてイエス・キリストを信じるキリスト者が神の子として喜び感謝して生きる姿を神さまは見ているのです。

 新約聖書が告げる重大な霊的現実に目を向けたいと思います。

ガラテヤ 5:24
キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。

 キリスト・イエスのものとなった人たちとはキリスト者のことです。キリスト者は肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったとあります。どういうことでしょうか。キリスト者はキリストと共に死に、肉を十字架につけたのです。つまり肉は死んだのです。肉はもはやキリスト者を支配しないのです。これは霊的な現実です。肉の支配から自由にされている、これがキリスト者の霊的な現実なのです。これを信じて歩めば、やがてリアルな現実になっていきます。肉の思いから、キリスト者は解放されていくのです。

ローマ 8:9
神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。

 私たちは洗礼を受け、キリスト者となり、聖霊の賜物を受けました。キリスト者のうちには聖霊が住んでおられます。そしてキリスト者は霊の支配下にいるのであり、肉の支配下にはいないのです。これがキリスト者の霊的な現実です。このブログを読んでいるあなたの霊的現実です。

 出エジプト記にあるイスラエルの奴隷からの解放物語は、過去の物語ではなく、私たちを自由にする解放の物語であり、私たちの物語なのです。イエス様は私たちを罪と死の支配から解放してくださったのです。

 霊的現実は、実感できません。信ずべき事です。私たちは信仰者です。この霊的現実を信じてこそ、信仰者です。

 もう一つ言わなければならないことがあります。私たちは荒野を旅して不信仰に陥ったイスラエルの民と同じだということです。つまり立派な信仰の持ち主ではないということです。疑ったり、不安に陥ったり、それでも信じようとしたり、あがいたりするのが私たちです。それゆえ、次の祈りを私たちの祈りとすることが大切です。

「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(マルコ9:24)。

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柑橘系の実を付ける木をよく見ます