救い
私は若い日、むなしさを覚えていました。聖書には空しさからの救いについて明確な記述があります。
信仰とは神との交わりに生きること。神との交わりに生きるとき、人は幸いな歩みをします。救われて生きるとは、神との交わりに生きることです。
アブラハムは神から呼びかけられ、神との関わりに歩みました。イスラエルの民は奴隷からの助けを求め、神と民とされ、神との交わりに生きる者とされました。
救いとは罪の赦しと考えるのは、人間の視点です。神はイエス・キリストを信じる者を御自分との交わりに迎えるのです。だからイエス・キリストを信じる者を義としたのです。
御子イエスの十字架の死。このしがなければ、人間の救いはありません。御子の死こそが人を救います。
人間にとって救いとは、神を愛する人間となり、自分を愛するように隣人を愛する人間となることです。
主イエスは「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいとわたしは切に願っていた」と弟子たちに語りました。主の気持ちは何だったのか。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。 私は滅びる側の人間なのでしょうか。
ヨハネ 3:16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。 滅びとは何でしょうか。
キリストに似た者となることを目指すことはキリスト者の課題です。なぜならイエスは真の人であるからです。
キリスト者は、地上の生涯を終えて神の国に迎えられます。神の国に迎えられるのにふさわしい人はどのような人なのでしょうか。
創世記によれば人間は、神にかたどって、神の似姿に造られたとあります。この似姿の回復も、救いです。
神との交わりの回復。これも聖書が告げる救いです。
罪からの救いを考えるときに、私たちの心の汚れも問題となります。私たちの心は罪へと傾いています。
アダムとエバ物語は、罪を犯すように人間に働きかける存在、力がこの世にあることを示しています。
聖書はイエス・キリストは私たちの罪のあがないのためのいけにえとしてご自身を献げられたと語ります。
イエス・キリストは私たちの救い主です。では、私たちは何から救われるのでしょうか。私は次のように考えます。・・・
聖書が伝える救いは、まず罪からの救いです。創世記6章からノアの洪水の物語が始まります。
イエス・キリストを信じるとき、 人は新たに生まれた。 人はキリストに結びつけられた。
昔からずっと思っていることがあります。それは福音理解です。福音とは罪の赦しいう理解。
クリスチャンとは、キリストに結ばれて生きることを自覚的に選び取って生きる人のことです。救いとは神の恵みによって、キリストに結ばれることです。
やがて私は知りました。自分は罪の支配下にあること、闇の中にいること。そしてキリストに結ばれるとき、闇から光へ、罪の支配下から御子の支配下に自分が移されたことを。
御子の支配下に生きるなら、罪に打ち勝ち、罪の支配から自由になり、解放の喜びを味わう信仰の世界が開かれます。
人は皆、アダムにつながる人として罪を犯し、罪の支払う報酬として死にます。しかしキリストを信じ、キリストに結ばれるとき、永遠の命を得ることになります。
神によって自由な存在として造られた人間は、罪に傾く心を持っています。それゆえ、何かあれば罪を犯してしまうのが人間です。その人間を罪から救うために神は、イエス・キリストを信じる者を新しく生まれさせます。
未信者の家族の救いはどうなるのでしょうか。救われるのか、救われないのか。
エジプトの奴隷状態からの解放を願ったイスラエルの民は、神の大いなる力によって解放されました。私たちはキリストの救いの恵みによって罪の支配から解放されます。聖書のメッセージです。
出エジプトの出来事は、神の民は捕らわれから解放された自由な民であることを伝えています。そしてこれはキリストを信じる群れもまた捕らわれから解放された群れであることを指し示しています。
キリスト者にとって救われて生きるとは、キリスト者として成長することであると私は信じています。
私たちは主イエスがご自身を犠牲にして私たちに与えてくださる恵みを受け取ることによって私たちは主につながります。