救い
イエス・キリストを信じるとき、 人は新たに生まれた。 人はキリストに結びつけられた。
昔からずっと思っていることがあります。それは福音理解です。福音とは罪の赦しいう理解。
クリスチャンとは、キリストに結ばれて生きることを自覚的に選び取って生きる人のことです。救いとは神の恵みによって、キリストに結ばれることです。
やがて私は知りました。自分は罪の支配下にあること、闇の中にいること。そしてキリストに結ばれるとき、闇から光へ、罪の支配下から御子の支配下に自分が移されたことを。
御子の支配下に生きるなら、罪に打ち勝ち、罪の支配から自由になり、解放の喜びを味わう信仰の世界が開かれます。
人は皆、アダムにつながる人として罪を犯し、罪の支払う報酬として死にます。しかしキリストを信じ、キリストに結ばれるとき、永遠の命を得ることになります。
神によって自由な存在として造られた人間は、罪に傾く心を持っています。それゆえ、何かあれば罪を犯してしまうのが人間です。その人間を罪から救うために神は、イエス・キリストを信じる者を新しく生まれさせます。
未信者の家族の救いはどうなるのでしょうか。救われるのか、救われないのか。
エジプトの奴隷状態からの解放を願ったイスラエルの民は、神の大いなる力によって解放されました。私たちはキリストの救いの恵みによって罪の支配から解放されます。聖書のメッセージです。
出エジプトの出来事は、神の民は捕らわれから解放された自由な民であることを伝えています。そしてこれはキリストを信じる群れもまた捕らわれから解放された群れであることを指し示しています。
キリスト者にとって救われて生きるとは、キリスト者として成長することであると私は信じています。
私たちは主イエスがご自身を犠牲にして私たちに与えてくださる恵みを受け取ることによって私たちは主につながります。
「たしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」。この言葉で大事なことは、主イエスが私につながってくださるので、私たちも主イエスにつながることができるということです。
私はキリストに結ばれた時、その人は真のキリスト者になるのだと考えています。
私はクリスチャンが「神さまの戒めを守らなければならない」と語るのを何度も聞きました。なぜ、守らなければならないのかと考えるのでしょうか。
キリストによって救われたキリスト者はどんな人かを描写します。
聖書が告げる救いとは滅びからの救いだと書かれています。ロマ書を読んで滅びを語ることをためらってはいけないと思うようになりました。
「信仰によって義とされる」とはどういうことなのか、考えたいと思います。
クリスチャンは救いの約束をいただいて、神の国を目指して人生を歩みます。
栄光を見るってどういうことでしょうか。栄光を見ると言っても、肉眼で見るわけではなく、見るなら心の目です。
ヨハネ福音書には神から遣わされたヨハネは光について証しするために来た、と書かれています。私もキリストの証し人として語ってみたいと思います。
旧約聖書は人間の罪を明らかにします。そして救い主を待望します。
創世記によれば、神は人間を造り、善悪の知識の木の実は食べてはいけない、食べると必ず死んでしまうと警告されました。なぜ?
わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」。 キリスト者はつまずいていないのか?
幼い頃に抱いた死の恐れ。恐れるたびに心が傷つきました。それが神への恨みとなりました。
私が使うオリジナルのたとえの第二弾。テレビの修理の話しです。
新しい花との出会いから神さまの思いに心が向きました。
イエス・キリストによる救いとは、罪を犯すという不具合を持つ人間を修理することです。