クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

人生航路の第二段階(22)キリストに結ばれる時

 洗礼を受けると私たちはクリスチャンと呼ばれます。キリスト者になります。洗礼を受けたらどうですか、と牧師に言われたから洗礼を受けたという人がいます。洗礼を受けるに至った経緯は人それぞれだと思います。

 私はキリストに結ばれた時、その人は真のキリスト者になるのだと考えています。

ガラテヤ 3:26~27
 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。

 使徒パウロは、洗礼を受けると私たちはキリストに結ばれ、神の子とされると書いています。これは真理です。信仰的な事実です。でもそのことが洗礼を受けた時に自覚されるとは限りません。自分はキリストに結ばれているという自覚が与えられる時が信仰者にはあると私は考えています。

 たとえばルカ15章にある主イエスのたとえがあります。放蕩息子のたとえです。初めて聖書を読む人がこれを読んだ時、兄に同情するのではないでしょうか。そして父の態度は不公平だと感じるのです。不公平だと感じる人は、洗礼を受けていても自分がキリストに結ばれているとは思えないのではないかと思います。放蕩息子は私のことだと思える人は、キリストに結ばれていると考えてよいと思います。

 人が自分の罪に打ち砕かれる時、キリストに結ばれていると考えてよいと思います。罪に打ち砕かれる時は人それぞれです。また人は何回も罪に打ち砕かれることもあります。罪に打ち砕かれる時、人は自分の内によいものは何もないことを思わされ、キリストに結ばれて生きることを望みとするようになります。

 言い換えると、あなたは生まれ変わったという聖書のメッセージを受け入れることができるようになります。神の恵みとしての生まれ変わりです。新生です。そして自分が神の子とされていることを感謝して受けとめ、神の子として生きることを志すようになります。

 洗礼を受けた人がみ言葉に従う歩みを始めるなら、自分の罪に打ち砕かれる時が必ず来ると私は信じます。その時は自分に絶望せず、いよいよ信仰生活の本番が始まると考えることができます。

 あの放蕩息子は、我に返って父のもとに帰ることを決心した時、その時から、彼は救われた人間として生き始めました。聖書が語る救いは罪からの救いです。自分の罪に打ち砕かれてこそ、救われた人としての生活が始まります。キリストを救い主と仰ぐ歩みが始まります。キリストに結ばれた歩みが始まります。

 私自身は、洗礼を受ける前、牧師になってしばらくして、2度自分の罪に打ち砕かれました。最初に打ち砕かれた時は、受洗のきっかけとなりました。2回目に打ち砕かれた時、自分は頭のてっぺんから足のつま先まで罪に満ちていると思わされました。このとてつもない落胆からの救いは、自分がキリストに結ばれていることにありました。

チングルマ 立山 2009.8