ヨハネ 3:16
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
私は滅びる側の人間なのでしょうか。だから救い主を必要としているのでしょうか。それとも滅びる側の人間ではないので、救い主は必要ないのでしょうか。
私は自分が滅びる側にいる人間だと思いますし、それゆえ、救い主イエス・キリストを信じています。自分が犯した罪に気づかされたとき、神の裁きを受けても仕方がないと思いましたし、自分の心を見るとき、罪深いと感じるので、私は滅びに値する人間だと思います。こんな聖句があります。
コリント二 5:10
なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。
キリストの裁きの座の前に立つとき、自分の行った罪に対する裁きを受けない人はいないと思います。すべての人は神の前に滅びる側にいると聖書は教えているように思います。
主イエスの語られた放蕩息子のたとえ。あのたとえの中で、放蕩に身を持ち崩した息子は、「息子と呼ばれる資格がありません。雇い人のひとりにしてくださいと」語りました。私たちは天国、神の国に迎えていただく資格はありません。しかし、イエス・キリストの十字架の死、贖いの死を信じることによって、救われ、永遠の命を与えられていると信じます。神の国に迎えられることを信じます。
そこで、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された神の愛がどれほどのものなのか、次に思いめぐらします。