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隠退牧師 holala によるブログ

人生航路の第三段階(7)最後の審判の基準

 最後の審判において、誰がどんな基準で、裁くのでしょうか。

マタイ 16:27
人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。

 使徒信条では、「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」とあり、主イエスが裁く方であることを示しています。主イエスは、父なる神から、裁く権能を与えられています。

 では何を基準に人は裁かれるのでしょうか。人が何をしたのか、しなかったのか、人の行為によって裁かれるとの記述が聖書にあります。

マタイ 25:40
そこで、王は答える。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」

 小さな者に親切にしたのか否かが、問われるとあります。人が何をして生きたのか、その行いがさばきの基準になると告げる聖書の箇所がほかにもあります。

コリント二  5:10
なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。

 聖書は、最後の審判は人の行いに基づき裁かれるとあります。人はその人生において善いことも悪いことも行ってきました。行いによって裁かれるとしたら、自分は救いに入れられるという自信を持てる人は少ないと思います。

 使徒パウロは、人は皆罪を犯していると告げ、救われる者はひとりもいないと教えます。それゆえ人はイエス・キリストを信じ、神から義とされ、救いに入れられると教えます。イエス・キリストを信じるか否か、それがさばきの基準であると語っているように見えます。同じパウロがコリント二5章では、人間の行いによって裁かれると書いています。

 主イエスを信じる者が救われると語る代表的な聖書の箇所を紹介します。

ヨハネ 3:16
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 人は信仰によって救われるのか、それとも行いによって救われるのか。そのような問いを立てることができます。これは、あれかこれか、どちらが基準になるのかではなく、どちらも基準であると言うべきなのだと私は考えます。

 つまり、人が主イエスを救い主と信じるなら、必然的にその信仰にふさわしい行いが伴うという理解があります。行いの伴わない信仰はむなしいのです。

ヤコブ 2:14
わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。

 信仰者として神の前に真剣に生きるか否か、それが大切であると考えます。生きる姿勢が大切だと私は考えます。

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