聖書 ローマ 4:1〜12
説教 義とされる幸い
2018/9/9
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→信仰によって義とされる、これはキリスト教の基本的な教え、
そして中心的な教えです。
イエス・キリストが私たちを罪から救うために
十字架で死んだくださったことを信じる人は、
信じるだけで、その罪を赦され、
神さまはその人を義としてくださる、
つまり罪人とは見なさず、
正しい者と見てくださるという教えです。
→普通、罪の赦しを受けるためには償いが必要です。
刑務所にいる受刑囚が、
私はイエス・キリストを信じ罪赦されているから、
解放してくれなどといってもそれは通りません。
罪は償ってこそ、赦される、これが普通の考えです。
しかしイエス様を信じるだけで、何の償いもなしで、
神さまの教えを一切守らずとも、罪赦されるというのです。
にわかには信じられない教えです。
→特にユダヤ人つまりイスラエルの人々はそうでした。
彼らは神の民と呼ばれました。
その彼らには割礼という儀式がありました。
生まれて八日目の男の子に割礼を施しました。
割礼というのは、男性の性器を覆っている皮の部分を切る儀式です。
なぜそんなことをするかというと、
神の民であるしるしを体につけるためです。
しかもそれは神さまの命令なのです。
→イエス様が復活され天に帰られた後、
弟子たちはイエス・キリストを最初はユダヤ人に宣べ伝えました。
やがて異邦人、つまりユダヤ人でない人にも宣べ伝えました。
すると割礼を受けていない異邦人もイエス様を信じるようになりました。
ユダヤ人キリスト者の中には、
異邦人は割礼を受けるべきだと主張する人がいました。
割礼は神の民であるしるしなのですから、異邦人クリスチャンにも必要だというのです。
割礼はユダヤ人に対する神の教え、戒めでした。
でもイエス・キリストを信じる人は、何の行いなしで、
神の教えを一切守ることなく義とされるとパウロは語るのです。
割礼は必要ないというのです。
→私はクリスチャンが、神さまの戒めを守らなくちゃ、と言うのを聞くと、どうしてと思います。
神さまの教えを一切守ることなくても、
イエス様を信じて罪赦され救われるのですから、
なぜ、守らなければいけないと考えるのか不思議なんです。
なぜ守らなければいけないと考えるのでしょうか。
今日の聖書でパウロは、
一切の行いなしで義とされることを強調しています。
→人間には、
よい行いをして認めてもらおうとする心があります。
信仰者には神さまの教えを守り、神さまに認めてもらい、
神さまから祝福をいただきたいと願う思いがあります。
そんな人間の思いを打ち砕くかのように、
何の行いもなしに、
つまり神さまの教えを一切守ることなくても、
イエス・キリストを信じれば、
私たちは義とされると、パウロは教えています。
信じるだけでいいんだと言っても、
なかなか理解してもらえません。
後に、救われるためには異邦人は割礼を受ける必要があるとの教えが教会を混乱させました。そこでパウロは、何の行いなしに、神さまの教えを一切守らずとも義とされることを
アブラハムやダビデを引き合いに出して語るのです。
→アブラハムについてはこう書かれています。
「では、
肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。
もし、彼が行いによって義とされたのであれば、
誇ってもよいが、
神の前ではそれはできません。
聖書には何と書いてありますか。
『アブラハムは神を信じた。それが、
彼の義と認められた』とあります」。
→これがどういうことかは創世記を見なければなりません。
アブラハムはある時、彼が75歳の時突然、
神の呼びかけを聞いたんです。
神の約束と神の命令を聞いたのです。
神は言われます
「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。
(命令ですね)
わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、
あなたの名を高める」。
(これは約束です)
これが神の呼びかけだとアブラハムがどうして信じることができたのか分かりませんが、アブラハムはその呼びかけに答えました。
彼は住み慣れた土地を離れて旅を始めました。アブラハム夫婦には子どもがいませんから、
子どもが授からないと、
「あなたを大いなる国民にする」との約束は現実しません。
→神の呼びかけを聞いたとき、アブラハムは75歳、
妻は65歳でした。
それから何年経っても、子どもが授かりません。
しかもアブラハム夫婦はどんどん年老いていきます。
そこで彼の心に疑いが生じたのです。
神さまの約束に対する疑いが生まれたのです。
わたしが大いなる国民になるなんて本当だろうか、
との神の約束に対する疑いです。
その時、再び神さまは、アブラハムに呼びかけるのです。
「天を仰いで、星を数えることができるなら、
数えてみるがよい。
あなたの子孫はこのようになる」。
するとアブラハムは星空を見て、「主を信じた」、つまり神を信じた、というのです。
彼は、神の約束は実現すると今一度信じたのです。
アブラハムが信じたのを見て神は、
それを彼の義と認められたのです。
神さまの約束を疑っていたアブラハムを神は、義と認めた、
正しい者と認めたというのです。
アブラハムは神さまの前によいことをしたわけではありません。
神の約束を疑いさえしたのです。
しかし「天を仰いで、星を数えることができるなら、
数えてみるがよい。
あなたの子孫はこのようになる」との
神の言葉を信じたとき、神を信じたとき、
義とされたのです。
彼はただ神さまがおっしゃったことを真実だ、本当のことだと信じただけです。
パウロは、アブラハムの出来事を引用して、
人は行いによらず義とされることを強調します。
→4節「働く者に対する報酬は恵みではなく、
当然支払われるべきものと見なされています」とあります。
働いた人は、その働きに対する見返りとして、
報酬を得る権利があります。
もし行いによって、
神の戒めを守ることによってあるいは何らかの罪を償うことを行って、罪の赦しを得るなら、
罪の赦しは恵みではなく、
人間が自分の力で獲得することになります。
とすればイエス・キリストの十字架の死の必要はなくなります。
罪の赦し、義とされることはあくまでも恵みです。
パウロはこう語り、
義とされるのに行いがいらないことを主張します。
→5節「不信心な者を義とされる方を信じる人は、
働きがなくても、その信仰が義と認められます」。
罪を犯す不信心な者さえも、
神は信仰によって義とされるというのです。
不信心な者には、
神の前に誇ることができるような行いはありません。
それでも信じれば義とされるのです、
と行いなしに義とされることを語ります。
→さらにパウロは詩篇の言葉を引用します。
「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、/幸いである。
主から罪があると見なされない人は、/幸いである」。
神さまに罪赦される人は幸いだと語っています。
引用された詩篇の言葉のすぐ後に、
「わたしは黙し続けて/絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。
御手は昼も夜もわたしの上に重く
/わたしの力は/夏の日照りにあって衰え果てました」とあります。
自分の罪を神さまに告白する前は、
自分が犯した罪のゆえに自分を責め、
また神様も自分を責めているのではないかと考え、
心身共に苦しみ衰え果てたというのです。
そして思い切って神さまに罪を告白した時に、
神さまの赦しを確信し、心は平安になりました。
そこで、罪赦された人は幸いであると歌ったのです。
何の行いもないのに、つまり罪を償うための行いもないのに、
罪を告白しただけで、
神さまは罪を赦してくださったというのです。
罪を償うために何かをしてゆるしてもらったのではありません。
行いなしに赦されたのです。
→そこで思うのです。
神さまはなぜ、
行いなしに信じるだけで私たちを義としてくださるのでしょうか。
そもそも信じるとは、どういうことなのでしょうか。
アブラハムを思い出してください。
あなたは大いなる国民になるとの約束を神さまからいただきました。
しかし子は授からず、
アブラハム夫婦はどんどん老いていきます。
年齢が年齢ですから、常識的には子を授かる可能性はありません。
そしてアブラハムは神の約束を疑いました。
そこで神は言うのです。
「天を仰いで、星を数えることができるなら、
数えてみるがよい。
あなたの子孫はこのようになる」。
アブラハムはこの神の言葉を信じたのです。
神さまの言葉を真実な言葉として受け入れ、
それを信じたのです。
神さまの言葉を真実な言葉として認め、
神ご自身を真実な方と認める、
これが信仰です。
神を真実な方とする、だから、私たちは義とされるのです。
→私たちはイエス様を救い主、
わたしたちの罪を贖ってくださる方と信じて義とされます。
私たちはイエス様のことをどこから知るかといえば聖書からです。
私たちは聖書を神の言葉と信じ、
聖書が告げることを真実だと認める、
真実だと受け入れるので
神さまは私たちを義と認めてくださいます。
「神さま、見て見て。私の行い見て。私の行い立派でしょ。
私はこんなにあなたの教えに従っているのよ。
わたしの罪を赦し、
わたしを義と認めてくださるでしょ」と誰かが言ったら
神さまはどう思われるでしょうか。
あるいは
「神さま、
私は罪深い者です。でも私はあなたの言葉を信じます。
あなたの言葉が真実であると信じます。
あなたは真実な方であり、私は、
あなたに信頼します」と誰かが言ったら
神さまはどう思われるでしょうか。
神さまはどちらの人を義とされるでしょうか。
→私たちは聖書からイエス・キリストのことを知ります。
聖書に基づく説教を聞き、イエス・キリストを信じます。
私たちは聖書を神の言葉と信じ、これに信頼します。
パウロも同じです。
コリントの手紙でパウロはこう書いています。
「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、
わたしも受けたものです。
すなわち、キリストが、
聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、
葬られたこと、また、
聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」。
パウロもキリストの十字架について、復活について、
聞いて信じたのです。
自分が聞いたことを本当のこと、真実なこと、
神の言葉として受けとめたのです。
そしてそれを伝えましたし、手紙に書き、
それが聖書に記録されています。
→イエス様の直弟子たちは、イエス様のことを目撃しました。
イエス様の十字架の死を、イエス様の復活を目撃しました。
そしてイエス様の死の意味を旧約聖書から理解しました。
イエス・キリストの十字架の出来事、
それは、
「私はあなたがたを救う」という神の語りかけだと受けとめました。
そしてそれを宣べ伝えたのです。
→神の言葉を真実だと信じる、神の語りかけを真実だと信じる、
この信仰のゆえに、神さまは私たちを義としてくださいます。
そしてこの信仰は、恵みとして神さまから与えられます。
信仰は神さまからの贈り物です。
信仰というのは、「信じさせられる」、
そして「信じる」という面があります。
イエス・キリストを信じようと決心するとき、
私たちは信じる気持ちに導かれました。
神さまが信仰を与えてくださいました。
そこでわたしたちは信じよう、と決心します。
神さまの働きによって私たちは信仰に導かれ、
この神の導きに応答して、
私たちは、信仰に生きようとします。
神の言葉を真実な言葉、真理と信じる信仰は、
神さまからいただきます。
そして私たちは神さまの言葉を真実な言葉とし、これを拠り所にして歩みます。
物事を考える土台を神の言葉にします。
神の言葉によって考えるのです。
これが信じるということです。
→私たちは何の行いもなしに義とされます。
義とされるには理由があります。
私たちが神の言葉を真実とし、神さまを真実な方とするので、
私たちは義とされるのです。
→それでは義とされるとはどういうことなのでしょうか。
第一にそれは、罪を赦され、罪を責められないということです。
神さまが私たちを正しい者と見てくださるということです。
第二に義とされるとは、
神さまが私たちを交わりの相手としてくださるということです。
5章1節を読みます。
「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、
わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」とあります。
私たちは神さまとの間によい関係が与えられ、
平和を得ているというのです。
罪のゆえに罰せられるなどということを恐れる必要はありません。
神との交わりに生きる私たちは、聖書から、神さまの言葉を聞き、励まされ、力づけられて歩みます。
→試練の中にある人たちに神さまは語られます。
「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(第一コリント10:13)。
→死んだ後どうなるか不安を抱いている人たちに神さまは語られます。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。
「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる」(コリント一13:12)。
「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」(ヨハネ一3:2)。
→これらの聖書の言葉を神の言葉を信じることができるなら、
私たちは何と幸いなことでしょうか。喜んで死ぬことができるでしょう。
神さまの言葉は真実であると告白するとき、
私たちは神さまをほめたたえているのです。