昨日のブログで、
キリスト者は律法に背いても罪をとがめられず、罪の責めを受けません。
と書きました。驚かれた方もいると思います。私たちは人間の常識で考えるのではなく、聖書の言葉に基づいて考えます。
ローマ 3:22
すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。
人が神の前に義(正しい者)と認められるのはイエス・キリストを信じるからです。律法、つまり神さまの戒めを頑張って守るから義とされるのではありません。これはキリスト教の基本的な教えで、多くのクリスチャンはそう教えられていると思います。
神さまが「イエス・キリストを信じる人を義とする」というのは、一つの宣言です。裁判での判決のようなものです。イエス・キリストを信じる人は「無罪の判決が下され」たのです(ローマ5:16)。判決が下されたら、その判決はくつがえされることはありません。
義とされたキリスト者が神の戒めに背いて罪を犯したとします。キリスト者はとがめられるのでしょうか。もしその罪が責められるとしたら、義とされたことは取り消されるのでしょうか。取り消されません。「私はこの人を義としたのだ」と神さまは言われます。義人は罪を責められることはありません。
ここで大切なことは、イエス・キリストを通して神さまがどのような救いを用意されたかを知ることです。それは昨日も書きましたが、次のことです。
- キリスト者は神を知り、神を喜び、神を誇ります。
- キリスト者は神の戒めを喜んで進んで行いたいと考えます。
- 神はキリスト者に神の戒めを行う力を与え、キリスト者は神の戒めを守ります。
キリスト者は世にある限り完全に罪から清められるわけではなく、世にあって罪を犯すことがあります。それは事実です。そのキリスト者は、神さまの戒めを喜んで進んで行いたいと考えています。神さまは戒めを行う力を与えてくださいます。キリスト者は戒めを行おうとします。時に失敗して罪を犯すことはあります。その時神さまはどうするのでしょうか。
「あなたは罪を犯したのか。あなたの罪に対して私は怒る」と責めるられるのでしょうか。イエス・キリストへの信仰によって義とされたゆえに、神さまの怒りが向けられることはもうありません。神さまは、これからは罪を犯さないようにと励まされると私は信じます。キリスト者は罪を犯すことがあるかもしれませんが、罪からの清めを求めて歩みます。これを聖化と言います。神さまは慈しみと憐れみに満ちた神さまです。神さまは罪を犯したキリスト者に、聖化を求めて歩みなさいと励まされます。
もちろん、罪を犯したことに気づいたらキリスト者は悔い改めて神さまに赦しを求めて祈ります。それで決着です。
信仰によって義とされることを信じるとは、もはや罪に定められることがないことを信じることです。
ローマ 8:1
従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。