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隠退牧師 holala によるブログ

人生航路の第二段階(36)神はなぜ、信仰によって義とするのか

 パウロは信仰によって義とされるという福音をローマ書3章で書いています。

3:21~22
ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。

 イエス・キリストを信じる者は神の義を与えられるとあります。言い換えると神さまは、イエス・キリストを信じる人を義と認める、つまり正しい者と認めるという意味で、福音の偉大な宣言の一つです。

 ではなぜ、神は信じる者を義と認められるのでしょうか。救い主イエス・キリストを信じるからでしょうか。

 イエス・キリストは罪のあがないのために自らを十字架の上でいけにえとして献げました。このイエス・キリストを信じる人が救われるわけですが、イエス・キリストを信じる人の罪を赦すというのであればスッキリします。なぜなら、イエス・キリストを信じる人は二度と罪を犯さない人になるわけではなく、罪をまた犯します。だから、イエス・キリストを信じる人の罪を赦すなら、納得できますが、イエス・キリストを信じる人を義とする、正しい者と見なすというのは、行きすぎではないか、と考えることができます。

 実際にキリスト者として罪の赦しは感謝をもって受けとめとめることができますが、義とされる、正しい者と認めていただけるのは正直、気恥ずかしいというか、これから神の目に罪を犯さないように生きなければならないと考え、重荷に感じることすらあるのではないでしょうか。

 礼拝の中で祈りがささげられます。「罪を赦されて感謝です」という祈りはよく聞きますが、「義とされて感謝です」という祈りはほとんど聞いたことがありません。これを祈ることに無意識のうちにためらいがあるのではないでしょうか。何かと言えば悪い思いが心に浮かんでくるとするなら、「義とされて感謝です」という祈りは、祈ることができないというのが正直な思いかもしれません。

 それなのになぜ、神さまはイエス・キリストを信じる信仰をよしとし、その人を義とするのでしょうか。パウロはローマ書の4章でアブラハムを引き合いに出し、神さまがアブラハムの信仰を義としたとあります。さらに私たちに関して、イエス・キリストを死者の中から復活させた神を信じれば義とされるとあります。

4:24
わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。

 使徒パウロはさらにこう語ります。

ガラテヤ 2:15~16
わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。

 パウロは、イエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、イエス・キリストを信じたというのです。神さまは、信じる者をなぜ義と認められるのでしょうか。パウロはどう考えていたのでしょうか。ミステリーです!

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