キリストに結ばれて始まる信仰者の歩みを人生航路の第二段階と呼びました。この第二段階は「信仰によって義とされる」ことを信じることによって始まります。それで「信仰によって義とされる」とはどういうことなのか、考えたいと思います。
このことを考える時思い出すことがあります。それは信仰者が「神さまの教えを守れなくて」と自分を責めたり卑下したりする時に私が発する質問です。
「神さまの教えを守れなくて、となぜ言うのですか」
「私は信仰者だし、神さまの教えを守るのは当然なのにそれができないので、落胆の気持ちになるんです」
「でも私たちは信仰によって救われるのですから、神さまの教えを守ることができるかどうかは、気にしなくていいのでは?」
「そうですね、確かに信仰によって救われるのですから、神さまの教えを守れないことを気に病む必要はないのかもしれませんね」
「そう思います?信仰者として生きるなら、やはり神さまの教えを守るのが自然だし、当然だと思いますが」
「だから最初に、神さまの教えを守れなくて落胆の気持ちになると言ったではありませんか」
議論は堂々めぐりをします。そこで順を追って信仰によって義とされることを聖書から教えられたいと思います。
ローマ 3:24
ただキリスト・イエスによる贖(あがな)いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。ローマ 3:22
すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
イエス・キリストが私たちの罪のあがないのために十字架の上で、罪を償う供え物となられたことを信じる人を神は義としてくださいます。イエス・キリストを信じる人は神の前で、神の目に、義人なのです。正しい人なのです。私たちが義と認められるのは、神の恵みによります。人間の側での何らかの功績といったものは全く不要です。人間の側の功績によって人は神の前に義人にはなれません。私たちは無償で、恵みによって義とされました。神の目に正しい信仰者となりました。
なぜ、私たちが罪からの救いを求めるのかと言えば、神の裁き、神の怒りから救われるためです。
ローマ 1:18
不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。
神は、人間の不信心、不義に対して怒りを現される方であるとあります。私たちはイエス・キリストを信じ、この神の怒りから救われ、永遠の命を得ることになります。聖書が語る救いは、この神の怒りからの救いです。
私は求道者として教会の礼拝に通っていましたが、ある時、自分は神さまに対して罪を犯していると思い知らされました。小さなことですが、神さまの前で罪を犯していると愕然としました。それがきっかけで私は洗礼を受けました。神さまの怒り、裁きを恐れなくてよいと知り、平安を得ました。
罪のゆえに神の怒り、神の裁きを受けて滅びても仕方のない者がイエス・キリストを信じるなら、神はその者を義とし、義人と認める。またその者の罪を赦す、それが信仰によって義とされるという教えと私は信じています。