「A長老、こんにちは」
「あっ、Cさんこんにちは」
「前回お話ししてから、私に対する神さまの約束って何か、考えました。礼拝で聞いているのではないですか、とA長老がおっしゃったので思い出そうとしましたが、説教はあまり覚えていませんでした。それでまず思ったのは『求めなさい、そうすれば与えられる、探しなさい、そうすれば見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる』とのイエス様のお言葉です。どうでしょうか」
「そうですね、確かにイエスの約束のお言葉ですね。他にはありませんでしたか」
「あの有名な聖句。『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである』。これはどうでしょうか。独り子、イエスを信じる人には永遠の命が与えられるとの約束になるのでしょうか」
「なります。大切な神さまの約束になりますね。Cさんはいつ、永遠の命が与えられるという約束はいつ実現すると思いますか」
「えーと、えーと、そうですね、私が死んだ後、神さまの御国に迎えられたときでしょうか」
「そうですね、するとこの約束はCさんが生きている間には実現しない約束になりますか」
「あら、アブラハムの子孫が増えるという神さまの約束は生きている間には実現しない、そんな約束を信じるなんてまともな人間のすることではないと思いましたが、永遠の命の約束も、私が生きている間には実現しないのですね」
「そうですね。永遠の命の約束、Cさんは信じますか。神さまの大切な約束と受けとめますか」
「はい。でも私が生きている間に実現する約束を信じたいですよね。A長老はどんな約束を信じておられるのですか」
「私ですか。私は、信仰によって義とされるという約束でしょうか」
「信仰によって義とされるというのは説教で聞いた覚えがあります」
「ローマの信徒への手紙3章に、イエス・キリストを信じる人は神の恵みにより無償で義とされるとあります」
「あのお~、それって具体的にどういうことですの。何か人に聞くの恥ずかしくって聞きそびれていました」
「そうですか。はっきりおっしゃってくださってよかったです。イエス・キリストを信じる人を神さまは義とする、言い換えると正しい人とするというのです」
「私たちが神さまの前に正しい人になるのですか」
「いや、正しい人と見てくださるということです。しかも恵みによりとあるので、私たちは何もしていないのに、正しい人と見てくださるし、正しい人として私たちに関わってくださるという約束です」
「私たちは罪を犯したりするのにですか」
「はい、イエス・キリストを信じる人を正しい者と見なし、正しい者として私は関わる、と神さまは約束されたのです。神さまはイエス・キリストを罪を償う供え物となさいました。だからイエス・キリストを信じる人は、その犯す罪はすべて償われたのです。それゆえ、正しい者と見なされ、正しい者として神さまは関わってくださいます」
「そうなんですか」
「ですから、私は神さまの前に義とされた者、正しい者であると信じています。私が義とされるのは、私の行いの結果によるのではありません。ここが大事です。神の恵みにより、つまり神さまの好意によって、私は正しい者とされたのです」
「行いが正しいから正しい者と見なされるというのなら分かりやすいですが、そうではないのですね」
「はい、私は罪を犯しますが、神さまの前には正しい者なんです」
「でもそれって変ではありませんか」
「私は罪を犯しますが、もはや罪人ではありません。神さまの前に正しい者です」
「なんか変ですよ」
「変に見えますよね。お気持ちは分かります。私も最初はそうでした。うちの牧師さんから教えられました」
「Cさんには息子さんがいらっしゃいましたよね」
「はい、二人います」
「たとえば、息子さんが犯罪を犯して逮捕されたとします」
「Cさんと息子さんとの関係はどうなりますか。犯罪を犯すような息子を勘当しますか。親子の縁を切りますか。もはやあなたの息子と認めるわけにはいかない、となりますか」
「いや、息子は何をしようと私の息子です。よっぽどのことがない限り、勘当などしません。いや何があったも勘当などしません。息子の更生を親として考えると思いますが、息子は息子です」
「それと同じです。私たちはイエス・キリストを信じ、正しい者とされました。さらに言えば、私たちは神の子、神さまの子どもとされました。私たちが信仰者としてどのような行動をしようと私たちは神さまの子、神さまの目に正しい者なのです。神さまと私たちの関係は変わることがないんです」
「でも罪を犯したら、正しい者って言えるんですか」
「神さまは、私たちを義とする方で、私たちを正しい者と見てくださいます。神さまは、私たちが罪を犯さなくなるように、配慮をしてくださっているんです。これが大事です」
「私たちが罪を犯さなくなる。本当ですか。人って罪を犯さざるを得ない存在なのではないでしょうか」
「その通りです。そこでまた神さまの約束です。うちの牧師先生が教えてくださいました。テトスの手紙3章の言葉を紹介します。『神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです』(テトス3:5)。聖霊によって新しく生まれる、これが何を意味しているかです」。
「聖霊によって私たちが新しく生まれたというのですか」
「はい、そうです。Cさんも新しく生まれ変わっているんですよ」
「でもそんな実感はありませんが」
「そうですね。新しく生まれたというのは信じるのです。そして神さまは私たちが新しく生まれた者として生きていくことを願っているのです。新しく生まれた者として生きていこうとするとき、私たちは罪は犯したくないと考えるようになります。そして努力します。だから神さまは、たとい私たちが失敗して罪を犯したとしても私たちをなお正しい者、神の子と見てくださいます。このことを牧師先生から教えられたとき、私は感動しました」
「A長老のお話はそれなりに分かりました。でも正直言うと私はまだ罪ということがよく分からないのです」
「そうですか、では今日はここまでにしておきましょう。お元気で」
「ありがとうございました」