クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

「すでに」と「いまだ」(3)救い

 救いというのは、色々な角度から語ることができますが、一番の救いは、死後の救いです。主イエスはマタイ福音書25章31節以下で、御自分がこの世にもう一度おいでになるとき、すべての国民を、その行いによって裁くと教えられました。

マタイ 25:31~34
 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。そこで、王は右側にいる人たちに言う。『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。・・・ それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。

 またこのような言葉もあります。

コリント二 5:10
わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。

 人は最後の審判でその生涯で行ったことについて神に裁かれるというのが聖書の教えです。裁きの結果は二つです。ひとつは救い、今ひとつは滅びです。ここで救いに入れられることが最終的な救いとなります。

 聖書によれば、すべての人は残念ながら、救われないと教えます。なぜなら人は皆、神の前に罪を犯しているので、救いに入る資格を持たないのです。そこで神は救い主としてイエス・キリストをこの世に送りました。イエス・キリストは十字架で死にました。彼はその生涯で罪を全く犯しませんでした。しかし十字架の上で、私の罪に対する神の怒り、あなたの罪に対する神の怒り、全人類の罪に対する神の怒りをお受けになりました。

 イエス・キリストは、自分の罪に対する神の怒りを受けたこと、言い換えると自分の罪に対する神の裁きを受けられたと信じる人は、その罪が赦されるというのが聖書のメッセージです。イエス・キリストは私たちの救い主です。イエス・キリストを信じる人は、最後の審判でその罪を咎められることはありません。つまり最後の審判において、救いに入れられることが確定します。救いに入れられるとは神の国に迎えられるということです。

 イエス・キリストを信じる人は、最後の審判で救いに入れられるというのが聖書が告げる救いのメッセージです。イエス・キリストを信じる人は、最後の審判において救いに入れられるとの「約束」を得たのです。注意したいのは、クリスチャンは救いの約束を与えられていますが、神の国の入場券を与えられたわけではありません。イエス・キリストを信じさえすれば、つまりクリスチャンになれば、絶対に神の国に迎えられるという「保証」が与えられたわけではありません。与えられたのは約束です。そして神さまは約束を破るお方ではありません。ですからクリスチャンは、「すでに」救われていると言ってよいのです。

 宝くじのたとえを話します。宝くじの当たり券を持っている人は、「すでに」賞金を得ているということができます。賞金を受け取る権利を持っているからです。しかし賞金をもらうために銀行に行くまでは、「いまだ」賞金は、手に入っていません。銀行に行けば賞金が手に入ります。クリスチャンは救いの約束を与えられ、「すでに」救われているということができます。しかし「いまだ」神の国に迎えられたわけではありません。救いを最終的に獲得するのは、最後の審判の時です。クリスチャンにとって宝くじを銀行に持っていくとは、クリスチャンとして人生を生きるということです。

 クリスチャンは、救われたと信じて、喜んで生きていきます。終末が到来して最終的な救い、神の国に迎えられることを楽しみとし、喜びとして生きていきます。

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クリスチャンは自分がどこへ行くかを知り、
そこを目指して人生を歩みます。

ガクアジサイ 馬見丘陵公園