クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

救いを考える(5) 明確な自己認識

 パウロによれば、人間は二種類に分類されます。まず、生まれながらの人間はアダムに結ばれた人間となります。キリストを信じる人はキリストに結ばれた人間となります。クリスチャンは自分がキリストに結ばれた者であることを意識して生きる人です。

ローマ 5:15
しかし、恵みの賜物は罪とは比較になりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら、神の恵みと一人の人イエス・キリストの恵みの賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです。

 アダムはエデンの園で罪を犯しました。生まれながらの人間はアダムにつながり、アダムに結ばれています。エデンの園のアダムの物語は、私の物語です。もし私がアダムだったら、私はアダムと同じ行動をしたということ、つまり私も罪を犯したということです。いや、私はアダムのように木の実を採って食べることはしないと主張する人もいるかもしれません。そんなあなたに聞きます。あなたは神の戒めに背いたことはありませんか。あるなら、あなたがアダムと同じということです。ないと主張するなら、あなたはクリスチャンではありません。

 生まれながらの人、アダムにつながる人は神の前に罪を犯す者となり、死ぬ者となりました。聖書は、人が死ぬのは罪の結果であると教えます。死は生物としての人間の自然現象ではありません。しかしイエス・キリストを信じる者の場合、神の恵みと恵みの賜物が豊かに注がれます。

ローマ 5:16
この賜物は、罪を犯した一人によってもたらされたようなものではありません。裁きの場合は、一つの罪でも有罪の判決が下されますが、恵みが働くときには、いかに多くの罪があっても、無罪の判決が下されるからです。

 アダムは一つの罪を犯し有罪の判決を受けました。彼はエデンの園を追い出され、死ぬ者となりました。しかしイエス・キリストを信じる人の場合、多くの罪を犯していたとしても無罪の判決が下されます。一方では一つの罪で有罪、他方では、多くの罪があっても無罪です。言うまでもなくこれは神の豊かな救いの恵みです。

ローマ 5:17
一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。

 アダムが罪を犯し、死がこの世界に入ってきました。そして人は皆罪を犯し、死ぬ者となりました。死が人を支配するようになりました。

 しかしイエス・キリストを信じる人には、恵みと義の賜物が与えられます。恵みとして罪の赦しが与えられ、義の賜物として人は無罪判決を受け、神の前に義なる者、正しい者と見なされます。義の賜物は罪の赦しに留まりません。死の支配からの救いとして永遠の命、さらには罪からの解放、罪からの自由が賜物として与えられます。イエス・キリストを通して生きるとは、罪から解放されて生きること、罪に勝利して生きることを意味します。罪を犯しては神の赦しを受けるという繰り返しの生活は、本来のクリスチャンの姿ではありません。

 クリスチャンとは、キリストに結ばれて生きることを自覚的に選び取って生きる人のことです。救いとは神の恵みによって、キリストに結ばれることです。この救いに生きるか否か、各人の選択になります。

アリアケスミレ 馬見丘陵公園