クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

救いを考える(9) 義とされた人

 パウロによれば、人類は二つに分類できます。アダムにつながる人とキリストにつながる人です。

 アダムにつながる人は生まれつき、無意識に罪を犯します。それゆえ罪の結果としての死を自分に招きます。私たちは信仰者となり、キリストに結ばれ、義とされます。正しい者とされます。

 義とされた私たちが罪を犯したら、義とされたことは取り消されるのでしょうか。取り消されません。もし取り消されてしまうとしたら、キリストの贖いの死って何なのか、という問いが生まれます。私たちが罪を犯して、義とされたことが帳消しにされるとしたら、キリストは何のために贖いの死を遂げられたのかとと考えます。しかし同時に、罪を犯してもなお義とされているいうのも変です。

 聖書は、義とされた信仰者は罪を犯しても義とされたことは帳消しになることはないと語っていると考えます。これが信仰によって義とされるというメッセージの真の意味です。

 人は義とされて以降、罪を犯すかもしれません。それでもなお義とされているとするなら、罪を犯そうではないか、と語る人が出てくるかもしれません。そんな人にパウロは、「罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう」(ローマ6:2)と語っています。キリスト者は罪を犯すことはあるかもしれません。しかし罪に打ち勝って生きようとします。このように努力するキリスト者が罪を犯したら義を取り消すようなけちくさいことを神はなさいません。罪に打ち勝つよう励ましてくださるのがイエス・キリストであり、イエス・キリストの父なる神です。

 アダムにつながる人は罪を犯し、有罪の判決を受け、罪の結果として死にます。キリストにつながる人は罪赦され、打ち消されることのない義と認められた人となります。

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