昨日、県内にある教会で説教奉仕しました。
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以下は原稿です。
詩編119編105節
コリント15章12~19節
説教 復活から開ける世界
1.導入
→今日は、主イエスの復活を覚えて説教します。
教会が主イエスの復活を宣べ伝えるとき、そこには困難があります。
死んだ人が復活するなんて、多くの人は信じることができません。
たとえば、使徒パウロがアテネの町で伝道していた時のことです。
初めのうちはみんな耳を傾けて聞いてくれました。
しかし復活を語り出したとき、ある人は嘲笑い、
別な人は、「それについては、いずれまた聞かせてもらう」と言ってそれ以上、パウロの話しを聞こうとしませんでした。
使徒言行録17章に書かれています。
復活を信じるというのはある意味で、
あり得ないことを信じることということができます。
教会が福音として伝えることは、
簡単に信じることができるとは限りません。
むしろ信じがたいことを宣べ伝えていると言えるのではないかと思います。
2.復活の出来事は単なる出来事ではない
→コリントの信徒への手紙一15章で使徒パウロは復活について書いています。
コリント教会には復活を信じていない人がいたようです。
それは不思議なことではないと思います。
死者の復活なんて、前代未聞の事柄ですから。
→そこでパウロは言います。
14節。
「そして、キリストが復活しなかったのなら、
わたしたちの宣教は無駄であるし、
あなたがたの信仰も無駄です」。
さらに17節「そして、キリストが復活しなかったのなら、
あなたがたの信仰はむなしく、
あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」。
→そこで教えられることは、キリストの復活を信じるとは、
キリストの復活という出来事が実際に起きたことを信じることに終わらないということです。
キリストの復活を歴史的な出来事として、
実際に起きたことであると信じるだけなら、
キリストの復活は私たちにとって、大した意味はありません。
昔にこんなことが起きたと信じても、
それだけでは意味がありません。
私たちが歴史を学ぶとき、昔こんなことがあったということが仰山出てきます。
それらを事実と信じても、
それで私たちの生きかたが変わるわけではありません。
ただ知識が増えたに過ぎません。
キリストの復活の出来事には、信仰者の歩みにとって深い意味があります。
それゆえキリストの復活は私たちにとって大切な出来事となります。
そこでパウロは、19節、「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最もみじめな者です」と言います。
→それではキリストの復活にはどんな意味があるのでしょうか。
キリストを信じる者は、復活したキリストに結びつけられるという
意味があります。
ガラテヤ3:26~27
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。
→洗礼は、信じる者をキリストに結びつける儀式です。
キリストに結びつけられ、私たちは神の子とされます。
だから祈る時、神を天の父と呼ぶことができます。
キリストに結びつけられた結果、
救いの恵みがドドッと私たちのもとにやってきます。
そして救いの恵みはみな、「あり得ない」ことに思えるのです。
でもこのありえないと思えることを信じるとき、
今まで知らなかった信仰の世界が開かれてきます。
3.復活による救いの恵み 罪からの解放
→17節でパウロは、キリストの復活がなければ、「あなたがたは今なお罪の中にある」と語ります。
あなたがたは罪の中にあるとはどういうことでしょうか。
あなたがたは、昨日も今日もそして明日も罪を犯して生きていくという意味です。
罪を犯すことが普段の出来事なので、あなたがたは罪の中にあるというのです。
聖書は罪の中にあることを、「罪の支配下にある」とか、
「罪の奴隷である」と言います。
→私たちは礼拝説教であるいは聖書を読む中で神の戒めを学んでいきます。
そして神の戒めに反することをしたとき、自分は罪を犯したと自覚します。
あるいは日常生活の中では神のことはほとんど考えず、
自分のことをしか考えず、自分は罪深いと思うこともあります。
悪いことはしていないかもしれませんが、
神を崇めないという不信仰の罪を犯していることもあります。
私たちは自分の力で罪を犯さないで生きることができるのでしょうか。
(間)
残念ながらできません。
なぜなら罪を犯すように導く力が私たちの外から、
私たちの内から働きかけるからです。
(間)
→このような力に支配されていることを罪の支配下にあると言います。
あるいは罪の奴隷であると言います。
皆さんは、御自分をどう思われるでしょうか。
私たちは自分の力で罪を犯さない生活を送ることはできません。
私たちは自分の力で、この罪の力に勝つことはできません。
→しかしキリストの復活を信じるとき、私たちに何かが起きるのです。
私たちはもはや罪の中にいないとパウロは語ります。
私たちはキリストと結びつけられ、私たちは罪の中から外へ出るのです。
つまり罪の支配下から脱出し、罪の奴隷ではなくなったのです。
どうでしょう。信じることができますか。
→ローマ 6:1~18を読みます。
「神に感謝します。
あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、
今は伝えられた教えの規範を受け入れ、
それに心から従うようになり、
罪から解放され、義に仕えるようになりました」。
「今は伝えられた教えの規範を受け入れ」というのは、「福音を聞いて信じ」と言い換えることができます。するとこうなります。
「神に感謝します。
あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、
今は福音を信じ、
それに心から従うようになり、
罪から解放され、義に仕えるようになりました」。
→念のために申し上げますが、
私たちは自分の力によって、
罪からの解放を勝ち取るのではありません。
神の恵み、救いの恵みによって罪からの解放を与えられます。
旧約聖書出エジプト記に出てくる、エジプト脱出の物語。
この物語は、神の救いは解放を与えることを教えています。
罪からの解放、どうでしょうか。
→罪からの解放、ありえないと思われるかもしれません。
キリスト者といえども私たちは罪を犯しますし、
罪を犯さない生活を送れるわけではありません。
しかし聖書は、救いの恵みとして罪からの解放を語ります。
ありえないと思える罪からの解放、もし信じるなら
罪から解放されて生きる信仰の世界が開けてきます。
4.罪の贖いについて
→イエス・キリストによる罪の贖いということも、
よく考えるとあり得ない話しです。
主イエスは、罪を贖ういけにえ、罪を償ういけにえであると私たちは信じます。
罪を犯したのは私たち。罪を赦すのは神です。
罪を赦す側の神の方から、いけにえを差しだすなんて、おかしいです。
罪を犯した者が、償いをするのが道理です。
罪を赦す側の神の方からいけにえを差しだすなんて、
あり得ない話しです。
理屈に合いません。
理屈に合わないかもしれませんが、これを信じるとき、
罪赦され、神の怒り、審きを恐れずに
神との間に平和を得て生きる信仰の世界が開かれます。
5.復活による救いの恵み 義とされる
→イエス・キリストを信じる人は義とされる、これも福音のメッセージです。
救いの恵みです。
ローマ 3:22
すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
→イエス・キリストを信じる人は、
それまでどのような罪を犯してきたとしても、
どんなに多くの罪を犯してきたとしても、
神はその人を義と認められるというのです。
神さまはイエス・キリストを信じる人を神の前に正しい者と見なされるというのです。
→それは裁判で無罪を宣告されるのと同じです。
裁判においていったん無罪と宣告されたら、
その無罪宣告は取り消されることはありません。
裁判での判決はいったんくだされたら取り消されることはありません。
イエス・キリストを信じる者を義とするとは、そのような神の判決です。
→信仰によって義とされることを信仰義認と言います。
では信仰義認と復活はどのような関係があるのでしょうか。
ローマ 4:24
わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。
この箇所は、イエス・キリストを信じるとは、主イエスの復活を信じることでもあると言っているわけです。
そこで義とされることを考えます。
義とされるとは、裁判における無罪判決と同じで、取り消されることのないものです。
すると当然のように疑問が湧いてきます。
信仰者が罪を犯したらどうなるのかという疑問です。
イエス・キリストを信じた時点で、
それまでに犯した罪については赦しを受けることができます。
でもこれから罪を犯したらどうなるのかという疑問です。
罪を犯したら義とされたことは取り消されるのではないかと考えるのは自然です。
罪を犯してもなお義とされ続けるなんて、
ありえないと誰しも考えるのではないでしょうか。
しかしこれを信じるなら、
たとい罪を犯してもなお義とされていると信じて
平安に生きる信仰の世界が開けてきます。
→またイエス・キリストを信じる人は神の子だというのです。
ガラテヤ3:26~27
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
信仰者といえども罪を犯します。
罪を犯すのに神の子と呼ばれるなんてあり得ない話しです。
どうでしょうか。
罪を犯すのに、私は神の子とされていると言っていいのでしょうか。
→イエス・キリストを信じる人は新しく生まれ変わっていると聖書にあります。
テトス 3:5
神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。
私たちは新しく生まれているというのです。
罪を犯すのに、新しく生まれているなんてあり得ない話しです。
新しく生まれたのなら、罪を犯さない者になるのではありませんか。
どうでしょうか。
罪を犯すのに、私は新しく生まれていると言ってよいのでしょうか。
→今日の聖書の12節でパウロは言いました。
さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。
→もしかしたらパウロは言うかも知れません。
あなたがたの中のある者が、
キリストを信じているのに、自分が義とされていること、神の子とされていること、新しく生まれていることが信じられないと言っているのはどうしたわけか。
これらのことが信じられないなら、
わたしたちの宣教は無駄であるし、
あなたがたの信仰も無駄です。
→福音、喜びの知らせは、あり得ないことばっかりです。
どう思いますか。
聖書が告げる救いの恵み、
それはあり得ないと思えるものばかりです。
全部信じますか。
それとも自分が信じられることだけ信じますか。
→私たちは信仰者です。
何を信じるのでしょうか。
神を信じます。イエス・キリストを信じます。
イエス・キリストを信じ、自分が救われていることを信じます。
では私たちは何を根拠に信じるのでしょうか。
信頼できる牧師先生が説教で語ることなので、
私たちは信じることができるのでしょうか。
説教は、聖書に基づいてなされます。
神について、イエス・キリストについて書いているのは聖書です。
聖書が語っていることだから、私たちは信じます。
聖書の言葉は真理であると信じる、
これが私たちの立場、私たちの信仰です。
→私たちはカルト宗教ではありません。
だから、イエス・キリストは救い主であると信じなければならないとは主張はしません。
信じなければ神の怒りを受けると脅迫することもしません。
神さまは私たちに自由を与えました。
信じるも自由、信じないも私たちの自由です。
しかし教会が信じ、伝えてきた信仰は、
聖書は神の言葉であると信じる信仰です。
そして聖書が語る福音を信じてきました。
→聖書には、このあり得ない、信じがたいと思えることについて、
なるほど、そうなのかと私たちを納得させてくれる
信仰の理屈、恵みの言葉も書かれています。
繰り返します。
聖書には、このあり得ない、信じがたいと思えることについて、
なるほど、そうなのかと私たちを納得させてくれる・・・。
→私たちは神を全能の神として信じています。
このありえないと思うことを実現させるのは全能の神です。
ありえないと思えることが救いの恵みとして
私たちの身に起きるとき、
喜びと平和、感謝に満ちた信仰の世界が開かれてきます。