クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

濃い霧の朝

 今朝起きたら久しぶりの濃い霧。近所のコンビニが見えないほどの濃い霧。当然、金剛山も見えません。この見えない風景を見ていると一つの聖句が思い出されました。

コリント二 4:3~4
わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。
この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです。

 心の目をくらまされて福音の光が見えないとあります。キリスト者でも福音の光が見えないことがあると思います。洗礼を受けたときは、信仰を持たない人たちとそんなに違いません。この世的な考えが心の中にありますから、福音の光が見えないことはあると思います。

 イエス・キリストを信じる者を神は義と認めると聖書にあります。義と認められたキリスト者が罪を犯したらどうなるのでしょうか。罪を犯したら義と認められたことは取り消されるのでしょうか。罪を犯しても義と認められたことは取り消されないのでしょうか。

 これについて、こちらが正しいと断言できるキリスト者は少ないのではないかと思います。礼拝の中で祈りがささげられますが、罪が赦されて感謝です、という祈りはささげられますが、罪を犯してもなお義と認められていることを感謝します、という祈りは聞いたことがあリません。実は私もしたことがありません。多くの人がこの点はあやふやなのだと思います。福音の光が見えていないのです。

 牧師を引退し、時間的な余裕ができてロマ書を学んでいますが最近になって、「罪を犯してもなお義と認められている」と確信を持つことができるようになりました。あなたはイエス・キリストを信じたゆえに、罪を犯してもなお義と認められています、これは福音の光です。

 似たことがほかにもあります。キリスト者は神の子であり、新しく生まれた者であると聖書に書かれています。では罪を犯してもキリスト者はなお神の子であると主張できるのでしょうか。罪を犯しても、なお私は新しく生まれていると主張できるのでしょうか。
 どう思いますか。

シロツメクサ