2024年2月4日、説教奉仕をしましたので、その説教を紹介します。
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創世記 2章15~17節
ローマ 5章12~21節
説教 神の支配に生きる
説教後讃美歌294番
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以下、原稿です。
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0.なんでアダム
→ローマの信徒への手紙を初めから読んできて、
この箇所に来て私は戸惑いを覚えます。
なぜ突然アダムが出てくるのか、すぐには理解できないのです。
パウロがどのような思考の流れの中で、
アダムを語るのか、その思考の流れがすぐには理解できないのです。
繰り返し、繰り返し読む中で少しずつ理解できるようになりました。
パウロがアダムを引き合いに出すのは、
キリストによる救いを深く掘り下げて考えているからだと思います。
1.アダムの罪
→アダムとは、創世記に出てくる人物です。
創世記によれば、神は御自分に似せて人間を造ったとあります。
その結果、男のアダムと女のエバが造られました。
このことは、男と女が夫婦として関わりを持ち、
交わりに生きるように、
人は神との交わりに生きる者として創られたことを教えています。
彼らは生きる場としてエデンの園を与えられました。
創世記2章16~17節にこうあります。
「園のすべての木から取って食べなさい。
ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。
食べると必ず死んでしまう」。
→木の実を食べるだけの食生活なんて味気ないですが、
園のすべての木から取って食べることができることは、
食べることには不自由しないということです。
食物を得るために労苦する必要がないのです。
ですから善悪の知識の木の実を食べる必要はありません。
善悪の知識の木の実を食べなければならない理由もありません。
→しかしアダムとエバは、
善悪の知識の木の実を取って食べました。
神の命令に背いたのです。
彼らは神の前に罪を犯しました。
神は「食べると必ず死ぬ」と警告を与えました。
彼らは食べた直後に死ぬことはなかったのですが、
やがて死にました。
→12節で、罪が世に入り、罪によって死が入り込んだとあります。
その結果、アダムの子孫は罪を犯す者、死ぬ者となりました。
2.信仰の真理
→人はなぜ罪を犯すのでしょうか。
その問いに答えるために使徒パウロは、
この世に生まれる人間は皆、アダムに結ばれていると語ります。
だからアダムと同様、人はみな罪を犯し、
人は皆死ぬ、と語ります。
生まれながらの人間は、アダムに結ばれているというのです。
人はアダムに結ばれているから罪を犯すとパウロは語ります。
→14節「実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです」。
来るべき方とは、イエス・キリストのことです。
「前もって表す」とあります。
これは模型という言葉が使われています。
家を建てる時、まず設計図ができますが、
模型をつくってどんな家ができるかイメージできるようにします。
模型は、本物を指し示します。
旧約聖書には新約聖書の出来事を指し示す模型と呼べることが書かれています。
その一つの例を紹介します。
出エジプト記には、
エジプトにおいて奴隷であったイスラエルの民が、
神の力によって奴隷状態から解放される出来事が書かれています。
この解放の出来事は、イエス・キリストによる救い、
つまり信仰者が罪の支配、罪の奴隷から解放される救いを指し示す模型なのです。
→ではアダムは何を表しているのでしょうか。
生まれながらの人間がアダムに結ばれているように
キリストを信じる人たちは、キリストに結ばれているというのです。
人は誰かに結ばれていることをアダムは表しているというのです。
結ばれるということにはさらに意味があります。
→アダムに起きたことは、
アダムに結ばれている人にも起きるのです。
キリストに起きることは、
キリストに結ばれているキリスト者にも起きるのです。
このように人は、アダム、もしくはキリストに結ばれた者であるというのが、使徒パウロが教える信仰の真理なのです。
キリスト者がキリストに結ばれていることは、救いを考える上でとても重要です。
3.アダムに結ばれた人たち
→この世に生まれた人は皆、アダムに結ばれています。
→15節。「一人の罪によって多くの人が死ぬことになった」とあります。
「多くの人」とありますが、これもすべての人と言ってよいと思います。
「一人の罪」とはアダムの罪のことです。
アダムが罪を犯し死んだので、
すべての人が死ぬこととなったというのです。
アダムに起きたことがアダムに結ばれた人、つまり生まれながらの人間すべてに起きるのです。
→17節「一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになった」。
アダムが罪を犯して死んだので、死がすべての人に及んだ、
死はすべての人を支配するようになったというのです。
聖書において、人間の死は自然現象ではなく、罪の結果です。
「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23)
→19節「 一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように」。
アダムが神に背いたので、多くの人が罪人とされたとあります。
アダムが神に背いたので、すべての人は罪人になったというのです。
生まれながらの人はすべてアダムに結ばれているので、罪人とされました。
私たちは罪を犯すから罪人なのではなく、罪人だから罪を犯すのです。
→人はなぜ罪を犯すのでしょうか。
人はアダムに結ばれて罪人だから、人は罪を犯す、それがパウロの答え、聖書の答えです。
4.キリストに結ばれた人たち
→次に、洗礼を受けキリストに結ばれた人たちはどうなるのでしょうか。
まず、言っておかなければならないのは、
キリスト者も、生まれたときはアダムに結ばれていたので、
死に支配され、死ぬべき人間でした。
それゆえキリスト者もいつの日にか、地上の生命を終えます。
イエスご自身も人として生まれ、死ぬ者となりました。
パウロは、イエス・キリストに結ばれていることは、
アダムに結ばれているよりはるかにすばらしいことだと語ります。
→このキリストには、何が起きたのでしょうか。
ロマ書の3章21節以降に書かれています。
神はキリストを立て、罪を贖う供え物としたとあります。
キリストの死は、人々の罪を贖う死でした。
人々の罪を償うための死でした。
そこでイエス・キリストを信じる人は
神の恵みにより、罪を咎められることなく、
義とされると書かれています。
→18節「一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです」。
「一人の正しい行為」とはキリストの十字架を指します。
キリストは罪を犯すことはなく、十字架の死を遂げました。
キリストは神の律法を破ることなく、
律法を守る正しい人でした。
それゆえ、人類の犯した罪に対する神の怒りと、
罪に対する神の罰をその身に受けることができました。
キリストが神の怒りと罰を引き受けてくださったので
キリストを信じる人は罪赦され、義とされました。
こうして神との交わりに生きることが許されました。
さらに神から新しい命を与えられました。
肉体の死を越えて生きる者とされました。
→19節「一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです」。
一人の従順、それはキリストの従順です。
キリストは死に至るまで、十字架の死に至るまで、
神に従順に歩みました。
このキリストにつながるキリスト者は、
正しい者とされました。
神はキリスト者を正しい者と見てくださいます。
→キリストを信じる人に何が起きるのでしょうか。
次の6章に書かれています。
ローマ6:3~4
それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
→キリスト者は洗礼を受けてキリストに結ばれたと書かれています。キリストに結ばれたキリスト者は、
キリストと同じように死に、
キリストが復活したように、新しい命に生きるようになるとあります。
→パウロは、アダムに結ばれた人とキリストに結ばれた人の比較をします。
15節で「恵みの賜物は罪とは比較になりません」。
アダムにつながる人、生まれながらの人は、
罪から生じるもの、つまり死を受け取ります。
キリストにつながるキリスト者は、
神の恵みとイエス・キリストの恵みの賜物を得ます。
→16節。アダムにつながる人は、たった一つの罪しか犯さなくても有罪とされるのに、
恵みの賜物は、人がどんなに罪を犯していても、その人に無罪を宣告します。
→アダムにつながる人は死に支配されます。
しかし恵みの賜物を受けている人は新しい命に生きます。
イエス・キリストを通して支配するとあります。
キリスト者は死の支配から解放されて自由にされて生きることができます。
→アダムにつながる人は罪人です。
キリストにつながり恵みの賜物を受ける人は正しい人です。
神の前に義とされた人です。
こうしてキリストに結ばれたキリスト者の幸いをパウロは語ります。
5.恵みの支配に生きる
→21節もまたアダムに結ばれた人とキリストに結ばれた人の比較をし、キリストに結ばれた人の幸いを語ります。
→まず罪は死によって支配するとあります。
アダムに結ばれた人たちは、罪に支配されています。
生まれながらの人は皆、罪に支配された罪の奴隷です。
これは世の人々には到底認められない言葉だと思います。
世の人たちは、「あなたは罪の奴隷です」と言われたら、
きっと怒り出すでしょう。
でもこれは聖書が告げる真理です。
さらに私たちは自分の力で罪の奴隷状態から自分を解放することはできません。
罪の支配は私たちが抵抗できないほどに私たちを支配します。
神の戒めを行うとする人の絶望的な言葉をパウロは語っています。
ローマ7:19~20
わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。
もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。
→キリストに結ばれた人は恵みの支配の中に置かれています。
恵みも義によって支配しつつ、とあります。
17節を読みます。
「神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになるのです。
→ですから、恵みは義の賜物によって支配するとなります。
義の賜物によってキリスト者を導くのです。
この手紙の3章21節以下で、
「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」。
→人はイエス・キリストを信じることによって義とされます。
神はその人を正しい者と見なします。
義とされる、これは義の賜物です。
義の賜物は人を義とすることで終わりません。
まだ賜物としてキリスト者を導くのです。
キリスト者は正しい者とされました。
だからこれからは正しいことをして生きていきます。
つまり神の御心を行っていくのです。
義の賜物は、神の御心を実行できるようにさせるのです。
キリスト者はキリストに結ばれます。
すると次のようなことが恵みとして起きるのです。
→神はキリストを信じる人を生まれ変わらせます。
皆さんは、既に生まれ変わっています。
神を礼拝する生活をしています。
聖書を読み、神に祈っています。
これらは皆さんが生まれ変わった証拠です。
信じる人を義とするのが義の賜物の第一の働きとすれば、
義の賜物の第二の働きは、キリスト者を生まれ変わらせることです。
皆さんは生まれ変わっています。
→キリスト者は生まれ変わり、神の子とされます。
神はキリスト者の父となってくださいます。
さらに聖書を真理の言葉と信じ、御言葉によって生きていきたいと考える人間へと導いてくださいます。
そしてこれは聖霊の働きとしか言いようがないのですが、
キリストに結ばれたキリスト者の心が、
神の御心を大切にしたいと考えるように変えられます。
つまり神の心を大切にします。
自分の思いよりも、神の御心を大切にするようになります。
アダムは、神の御心よりも自分の思いを優先して罪を犯しました。
キリスト者は神の御心を大切にします。
つまり神を愛するのです。
そして神の御心を行うことを喜ぶようになります。
神の御心を行わなければならないと考えるのではなく、
御心を行いたいと考えるのです。
これは聖霊の導きです。
このように考え、キリスト者は聖なる人になっていきます。
→聖書に、人間をどのような目的で造られたのか、神の御心が書かれています。
エフェソ1:4~5
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。
1:5 イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。
→キリスト者が聖なる者になる、それは神が天地を創造した時の、人間に対する神の目的です。
義の賜物を与えられ、神の目的が実現していきます。
義の賜物は、キリストを信じる人を義とするだけでなく、
信仰者を生まれ変わらせ、神の子とし、神の御心を喜び、行いたい人に変えていくのです。
かくしてキリスト者は聖なる者へと成長していくのです。
神の恵み、義の賜物はキリスト者を変え、成長させるのです。
キリスト者はこの神の恵みのもとに置かれています。
さらにイエス・キリストを通しての永遠の命に導かれるのです。
なんと幸いなことでしょうか。
祈ります。