クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

説教 罪からの解放

 1月22日(日)大阪にあるH教会で説教奉仕してきました。
音声サイトへ行くには ここをクリック

聞いていただけるとうれしいです。

以下は原稿です。

~~~~~~~~~~~~~~~
旧約聖書 出エジプト記 3章7~10節
新約聖書 ローマ 6:1~20
説教   罪からの解放
~~~~~~~~~~~~~~~

1.導入

→出エジプト記にはイスラエルの民の解放物語があります。
エジプトにおける奴隷状態からの解放の物語です。
エジプトから解放されたイスラエルの民は、神の民となりました。
なぜ、この解放物語が聖書にあるのでしょうか。
私はイエス・キリストによる救いが、罪の赦しだけではなく、罪からの解放でもあることを指し示していると考えています。
罪から解放された人たちが、キリストの教会に集っているのです。
キリスト者は新しい神の民です。
今日は「罪からの解放」という福音をお知らせします。

2.罪からの解放とは

→罪からの解放とは何を意味しているのでしょうか。
イエス・キリストを信じたキリスト者が、
もはや罪を犯さない人になるということでしょうか。
もはや二度と罪を犯さなくなるということでしょうか。
違います。
キリスト者といえども、罪を犯さない人はいません。

→パウロはこの手紙の7章でこのように書いています。
15節。「わたしは、自分のしていることが分かりません。
自分が望むことは実行せず、
かえって憎んでいることをするからです」。
17節。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」。

→つまり私は、自分のしたいことができず、逆に
してはいけないことをしているというのです。
これはキリスト者に共通の悩みではないでしょうか。

→神の御心を行いたい、神の喜ばれる歩みをしたいと願いますが、
それを実行できないのです。
キリスト者の心の中は戦場なのです。
神の御心を行いたいとの思いと、
それに逆らおうとする思いの戦いです。
キリスト者として真剣に生きようとするなら、
この戦いを経験しているはずです。
このような戦いに勝利して、神の御心を実行できるようになる、
それが罪から解放されるということです。
罪からの解放とは、具体的な罪からの解放です。
これは一回限りのことではありません。
キリスト者は自分の色々な罪を知らされるからです。
キリスト者の歩みは、このような罪との繰り返しでもあります。
しかし、このような解放を経験していくと、
自分が神さまの御心を行う人間に変えられていくことを覚え、
信仰に生きる幸い、喜びを覚えることも確かです。

→罪からの解放とは、従うことのできなかった神のみ心に従うことができるようになることを言います。(繰り返す)
→特定の神の戒めでなくても、自分はこれをした方が神の御心にかなうと分かっていてもできなかったことができるようになる、これも罪からの解放です。
 罪の赦しだけが福音ではありません。罪からの解放もまた福音、喜ばしい知らせです。

3.罪との戦い

→先ほど「キリスト者の心の中は戦場なのです」と申し上げました。
キリスト者は罪と戦います。
キリスト者が戦う罪との戦いを「霊と肉の戦い」と呼ぶことがあります。
キリスト者は信仰に生きようと願い、神の御心に生きようとします。
この神の御心を行いたいとの思いは、
神の霊、聖霊が与えてくれる思いです。
世の人は神の御心を行いたいとの思いを持ちません。
キリスト者であるあなたはなぜ、御心を行いたいと考えるのでしょうか。
それは聖霊の導きです。
他方、御心に従いたくないとの思いは、肉の思いと言います。
肉体を持つ、生まれながらの人間がもつ思いだからです。
この生まれながらの人間がもつ思いは、神の御心に逆らうことがあります。
生まれながらの人間の思いと信仰に生きようとする思いがキリスト者の心の中で対立し争うのです。

→このような戦いの中で苦しみ悩み、自分の願いとは逆のことをしてしまう惨めさをキリスト者は味わってきたのではないでしょうか。
世間の人は、神の御心に生きようとは思わないので、
このような惨めさを味わうことはありません。
世間の人は生まれながらの人間として肉の思いに歩みます。
それが当たり前のことと考えています。
しかしキリスト者は神のみ心に従うことを大切に考え、努力するゆえ、心の中の戦いに苦しみます。

→ガラテヤの信徒への手紙5章でも、この罪との戦いについてパウロは書いています。
「肉の望むところは、霊に反し、 
霊の望むところは、肉に反するからです。 
肉と霊とが対立し合っているので、 
あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです」。
自分のしたいと思うことができないこのみじめさを味わう人間のことをパウロは、
罪の奴隷、罪の支配下にある人間と言います。
そこでキリスト者は告白するのです。
「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。だれがわたしを救ってくれるのでしょうか」
人は神の御心を知り、これを行いたいと考えると
自分が罪の奴隷、罪の支配下にあることを思い知らされます。

4.助けはキリストから

→私たちは自分の力で、この罪との戦いに勝つことはできません。
自分の意志が弱いから勝てないのではありません。
私たちが罪の奴隷、罪の支配下にあるからです。
罪を犯すように働きかける力が強いのです。
だから私たちは自分の力で自分を解放することはできません。
助けはどこから来るのでしょうか。
パウロは語ります。
今日読んでいただいたローマ書6章に目を向けます。
3節。「それともあなたがたは知らないのですか」。
キリスト者は何を知っているべきなのでしょうか。

→3~4節。
キリスト・イエスに結ばれるために
洗礼を受けたわたしたちが皆、
またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、
その死にあずかるものとなりました。
それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、
わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

→8節。
わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、
キリストと共に生きることにもなると信じます。

→お気づきになられたでしょうか。
パウロは、キリストの死と復活はキリスト者の出来事でもあると語ります。
洗礼を受けてキリストに結ばれたキリスト者は、
キリストと共に死んだというのです。
そして復活したキリストと共に生きるようになるというのです。
その結果、罪に打ち勝ち、罪から解放されるというのです。

→「わたしは死んでいません」という方もおられるでしょう。
私たちが死んだのは、この肉体が死んだのではありません。
6節。「私たちの古い人がキリストと共に十字架につけられた」とあります。
古い人とは、罪の奴隷である私、罪の支配下にある私です。
肉の力に負けて、自分がしたいと思うことができない私です。
この私がキリストと共に死んだというのです。
さらに死んで終わるのではなく、
キリストと共に私たちは生きるようになるというのです。
4節には、私たちも新しい命に生きるとあります。
古い人が死んで、新しい人が生きるようになるのです。
この新しい命に生きるキリスト者、
キリストと共に生きるキリスト者は、自分のしたいことができるようになります。
つまり罪に打ち勝つのです。
私たちがキリストと共に死に、キリストと共に生きるのは、
6節に、罪の奴隷とならないためとあります。
キリストが助けてくださいます。

5.そうはいうものの

→なるほど、話しとしては分かります。
しかしキリストと共に死んで、
キリスト共に生きるというのは、
言葉の上では分かりますが、
どう受けとめていいのか分からないという方もおられると思います。
(間)
→パウロはどうして
このような言葉を書くことができたのでしょうか。
私が今日の説教の中で、私たちもキリストと共に死んで、
キリストと共に生きるのです、と語ったとき、
どう思われたでしょうか。
なんか妄想を語っていると思われなかったでしょうか。
何をバカなことを語っているのか、と思われなかったでしょうか。

→パウロは誰かの言葉を引用したのではありません。
これはパウロのオリジナルな言葉、
パウロのキリスト者としての経験から生まれた言葉だと私は考えます。
ではパウロはどのような経験をしたのでしょうか。

→パウロは、「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」という言葉をフィリピの信徒への手紙の中で書いています。
「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」、です。
キリスト・イエスのあまりのすばらしさを知ったとき、
パウロは古い自分が死んで、自分が新しい自分になっている
ことに気づいたのではないかと推測します。

→そのことはフィリピ書の3章を読むと分かります。
キリストに出会う前のパウロはクリスチャンを迫害していました。
その頃の自分のことをパウロはこう語ります。

フィリピ3章5~6節
わたしは生まれて八日目に割礼を受け、
イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、
ヘブライ人の中のヘブライ人です。
律法に関してはファリサイ派の一員、
熱心さの点では教会の迫害者、
律法の義については非のうちどころのない者でした。

→つまりパウロは自分の出身を誇り、ファリサイ派の一員として聖書を学び実践していることを誇り、神に対する熱心さで教会を迫害していたことを誇りにしていたのです。
さらに律法の実践において落ち度がないとさえ主張するのです。
パウロはすごい自信家です。
パウロはとても誇り高い人間だったのです。
その誇りゆえにイエス・キリストを救い主として受け入れることができず、
さらに神に対する熱心からクリスチャンを迫害しました。

→しかしその彼に復活した主イエスが現れました。
その結果、パウロは自分が間違っていたことを認めざるを得ませんでした。
神に従って熱心に行動していたことが、
実は神の御心に逆らっていたことを認めざるを得ませんでした。
そんなパウロに神はイエス・キリストが救い主であることを示されました。
ガラテヤの信徒への手紙の中でパウロは次のように書いています。
「神がみ心のままに御子をわたしに示して」と書いています。
そして彼はキリストを知ることのあまりの素晴らしさに目が開かれていったとわたしは想像します。
それではパウロはキリストをどのように受けとめたのでしょうか。

→パウロはキリストについてこう語ります。フィリピ2:6~8
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

 パウロはキリストのこのへりくだり、徹底して自分を低くし、
十字架の死に至るまで神に従順に生きたキリストの姿に、
キリストのすばらしさを見たのです。
その結果、あの人間的なことを誇るパウロは死んだのです。
彼が誇っていたものはゴミ、クズに等しいものとなりました。
そしてこのキリストを誇る新しいパウロが誕生したのです。
 この経験からパウロは、キリスト者はキリストに結ばれてキリストと共に死に、キリスト共に生きることを確信し、
この手紙に書いていると私は考えます。

6.罪からの解放

→キリスト者が罪から解放されるために大切なことが一つあります。
問題解決のためには原因究明が必要です。
何が原因で、私たちはしたいと思うことができないのか、
してはいけないことを行ってしまうのか、
その原因を探ることです。
パウロは語ります。この手紙の7:19
「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」。

→私たちの中に罪が住んでおり、その罪のために、私たちは自分が望む善を行うことができない、とあります。
私たちのこの罪とは何か、これを私たちは探らなければなりません。
でも事は簡単です。
自分の心を正直に見つめればいいだけのことです。
キリスト者として、私はこうしたいと考えているのに、
別な思い、つまりそれをしたくないという思いが自分の心にあります。
ではなぜ、したくないとの思い、神のみ心に従いたくないという思いが生まれてくるのでしょうか。
自分の心に潜む思いがあります。

→傲慢、恐れ、欲望、妬み、好色、敵意、怠慢、利己心、怒りなどが心の中にあり、それらが神のみ心に従うのを妨げていることに気づきます。
自分の心を探れば気づくと思います。
しかし実は、私たちは、このような思いに目を閉ざしてきました。
自分の心の中に悪しき思いがあることに気づきたくないのです。
そこで、「神さまの教えを実行するのはむずかしいよね、無理よね」と言ったり、
「私は罪深いから御心を行えないのよね」と考えたりして、
罪との戦いから逃げる人もいます。

→しかし私たちも私たちなりにキリストの素晴らしさを知るなら、罪に支配されている自分が死んで、神の子として生きている新しい自分に出会うことができます。
罪に打ち勝って生きる自分に出会います。

→礼拝で説教を聞き、聖書を読む生活の中で、
皆さんはすでに、キリストを知っています。
さらに一歩突っ込んでキリストが素晴らしい方であると知ると、
私たちの醜い心が変えられます。
あるいは醜い心を携えてキリストの前に出るとき、キリストのすばらしさを知ることができます。
その時、私たちを悩ませていた罪は砕かれ、
私たちは罪から解放されます。
キリストのすばらしさを知るとき、私の古い人は死に、
私はキリストと共に生きるキリスト者になっていることに気づきます。
自分の心の中にある醜い罪の思いをキリストが処置してくださいます。感謝です。

→最後に罪から解放された人を紹介します。
私の知っているある人・Aさんはすぐ人を裁く人でした。
主イエスは人を裁くなと教えておられます。
でも人を見ると欠点を見つけ、裁くのです。
Aさんはそんな自分が嫌でした。
でも人を見ると裁く思いが出てくるのです。
ある時、十字架の主イエスは自分を十字架につけた者たちのために、
執り成しの祈りをされたことに気づきました。
主イエスが十字架の上で執り成しをされたことは以前から知っていました。
しかしある時、気づきました。
キリストは自分を十字架につけた者たちに怒ることなく、
復讐を神に祈ることなく、彼らのために執り成しをされていると。
さらに自分はプライドを保つために人を裁いているのだと。
その時からAさんの中では、人を裁く古い自分が死んで、人のために執り成す新しい自分が生まれました。

私たちのうちに、神に従いたくないとの思いがあることを知り、
キリストがいかなる方であるかをあらためて知るとき、
そのキリストが素晴らしい方であると知るとき、
キリストのように歩みたいとの思いに導かれ、
私たちは罪から解放されます。

→罪からの解放とは、従うことのできなかった神のみ心に従うことができるようになることを言います。
罪からの解放は一回限りのことではありません。
キリスト者の歩みは、このような戦いの繰り返しでもあります。

しかし、このような解放を経験していくと、
自分が神さまの御心を行う人間に変えられていくことを覚え、
信仰に生きる幸い、喜びを覚え、神さまを賛美します。
まことに感謝なことです。


祈り

天の父なる神さま、
私どもにキリストを知ることの素晴らしさを味わわせ、
私たちの内に住む罪から私たちを解き放ってください。
イエス・キリストの御名により祈ります。