クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

ダメなクリスチャンはいるのか

 「あの人はダメなクリスチャンだ」と評価する場合、そこにはクリスチャンを評価する基準があります。その基準を大きく満たさないとダメなクリスチャンとなります。私たちは他のクリスチャンを見て、「あの人はダメなクリスチャンだ」と口に出すことは少ないと思います。心の中で「あの人はダメなクリスチャンだ」と裁くことはあるかもしれません。しかし人を裁くことを主イエスは戒めておられます。

 私が考えたいのは、「自分はダメなクリスチャンだ」と考えることです。こう語る人は何らかの基準を心の中に持っており、その基準に照らして自分はダメなクリスチャンだと考えます。

 あるいは一種の謙遜の表現として「自分はダメなクリスチャンだ」と言うことがあるかもしれません。しかしクリスチャンとしての自分を否定するような発言は謙遜の表現とは言えないと思います。少なくとも証しにはなりません。「ねえ、私はダメなクリスチャンなの。ねえあなた、神さまを信じ、クリスチャンにならない?」と言われて、礼拝に行こうと考える人はいないと思います。聖書が語る謙遜は神さまに対する従順を意味します。

フィリピ 2:6~8
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

 そこで何らかの基準に照らして自分をダメなクリスチャンと考える場合を考えます。この場合、自分のことをダメなクリスチャンと判断するのは自分です。しかし神さまは、その自分のことをどう見ておられるのでしょうか。

 神さまは、人間を造り、人間を愛しておられます。イエス・キリストを信じる人を大切な存在と考え、愛しておられるというのが聖書の語るところです。神さまは罪を犯す者、つまり神さまに逆らう歩みをしている者を救うために、イエス・キリストを十字架におつけになりました。

ローマ 5:8
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。

 神さまは、神さまの教えに逆らい、罪を犯す者たちを見捨てることなく、救おうとされました。神さまが、神さまの教えに逆らう者たちをダメな人間と見捨てるならともかく、この者たちを救おうとしたことは、神さまに逆らう者をも神は大切な存在と考えていることを教えています。神さまの目にダメな人はいません。

 それは分かる。だから私はクリスチャンになった。でもクリスチャンとしての私の歩みは、ダメなクリスチャンの歩みだ、と言う人がいるかもしれません。神さまの教えになかなか従えず、あるいは悪い思いが心によく湧いてきたりして自分は罪深いと思うのでしょうか。あるいは自分に厳しく現実の信仰者としての自分に満足できないのでしょうか。それとも神さまのことを思うのは日曜の礼拝の時だけで、それ以外は、神さまのことを考えていないからでしょうか。理由は人によってそれぞれだと思います。

 神さまの戒めの中で一番重要な戒めは「神を愛しなさい」です。

マタイ 22:35~38
そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか」。イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な第一の掟である」。

 神さまは御自分を愛してくれるクリスチャンを喜ばれます。クリスチャンというのは、神さまに救われ愛されていることを喜んで生きる人のことを言います。そしてクリスチャンは神さまを愛する努力をする人です。

 そして神さまの教えを守る力は、聖書によれば聖霊によって与えられます。自分の力(肉)で神さまの教えを守ろうとしてもうまくいきません。

ローマ 8:4
それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。

 一番大切なことは、神さまがイエス・キリストを信じる私たちを神の子としてくださったことを信じることです。神の子とされたことを喜ぶことです。そして神の子として生きることを願うことです。神の子は父なる神を愛します。聖霊の導きを祈り求め、ルカ15章の放蕩息子のたとえを読み、思いめぐらしていく中で、神の子とされたことを喜ぶ人にされていくと信じます。

 神の子として生きようとするクリスチャンの存在は神さまの喜びです。神の子として生きようとする限り、私たちは神に喜ばれる信仰者です。神の子としての歩みが遅々としたものでも、つまずきながらの歩みでも、神さまは喜ばれます。神の子として生きようとする人はダメな信仰者ではなく、神さまに喜ばれる信仰者です。

  • 神さまの目に、あなたはダメなクリスチャンではありません。
  • あなたの目に、あなたはダメなクリスチャンです。

あなたがどちらを選ぶかは、あなたの自由です。
ダメなクリスチャンは「いる」と言えばいるし、「いない」と言えばいません。

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自分は何者か、これをアイデンティティーと言います。
神の目に映る自分、それがクリスチャンのアイデンティティーです。

散歩道で