クリスチャンは神の子です。神の子、それはクリスチャンのアイデンティティーです。神の子であるとはどういうことでしょうか。
(1)特別な身分
洗礼を受けクリスチャンとなった人は「神の子」です。神の子、これはクリスチャンのアイデンティティーです。つまり神さまはクリスチャンを「神の子」として見てくださり、「神の子」として接してくださいます。クリスチャンは「神の子」という特別な身分を与えられました。神の子、それは神さまにとって大切な、価値ある存在だということです。それはルカ福音書15章の放蕩息子の物語を読めば分かります。
父親から自分が相続する財産を分けてもらい、家を出てその財産をすべて使い果たし、生活に行き詰まり、我に帰った息子。どうしようもない息子です。父のもとに帰り「私は神にもあなたにも罪を犯しました。あなたの息子と呼ばれる資格はありません」と告白するその息子を父は心から喜び受け入れ祝宴を開きます。喜び受け入れる、そこに父の愛があります。この父こそクリスチャンの父なる神です。
神さまは憐れみをもってわたしの罪を赦し、我が子としてわたしを受け入れてくださいます。わたしはあの息子のように神さまの喜びであり、大切な存在なのです。「神の子」それは神さまの愛を受ける者という特別な身分です。
(2)神の子として生きることへの召し
クリスチャンは「神の子」として生きるように神さまに召された者です。神さまはクリスチャンを愛し、クリスチャンが「神の子」として生きることを願われます。神さまはクリスチャンとの交わりを望んでおられます。そこでクリスチャンも神さまを愛することを、つまり神さまとの交わりに生きることを神さまは願われます。
クリスチャンを愛し、クリスチャンから愛されることを神さまは喜びとなさいます。そしてクリスチャンも神さまに愛され、父なる神さまを愛することを喜びとすることを神さまは願われます。
クリスチャンは「神の子」として生きるように召されています。親として生きる時も、夫としてあるいは妻として生きる時も、子として生きる時も、会社員として生きる時も、商売人として生きる時も、老人として生きる時も、牧師として生きる時も、病気の時も、「神の子」として生きるように召されています。クリスチャンが神の子として生涯を全うすることを神さまは願われます。
(3)父の心を大切にする
「神の子」として生きる時、クリスチャンは父なる神さまを敬い、その御心を大切にします。神の子は父なる神さまの御心を喜びます。イエス様はその死に至るまで、父なる神さまの御心に従って歩まれました。同じように神の子であるクリスチャンも父なる神さまの御心を喜んで受け入れ、それに従って歩みます。
人は自分を育てた者(たとえば、父や母)に反発を覚えたことがあると思います。親の言葉に反発を覚えることがあります。同じようにクリスチャンも神さまの教え、神さまの御心を素直に受け入れることができないことがあります。すると神の子として心に葛藤が起きます。神の子はその葛藤を越えて父なる神さまの御心に従って歩みます。
(4)神の子としての成長
洗礼を受けて人はクリスチャンになります。神の子とされます。神の子となりますが、神の子としては生まれたばかりの赤ちゃんです。そこから神の子として成長していきます。父なる神の御心を知り、それに従って生きていくようになります。また神の御心に反発を覚えるような心の葛藤を乗り越えて成長していきます。どこに向かって成長するかというと、目標はイエス・キリストです。キリストに似た者となる、それがクリスチャンの成長目標です。
ヨハネ一3:2~3
愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。
(5)聖書を読んで生きる
神の子としてのクリスチャンは聖書によって歩みます。聖書を読まないと神さまがどのようなお方かが分かりません。また神さまは神の子がどのような生き方をすることを願っているのか、も分かりません。神さまがいかなる方かを知れば知るほど、神の子として生きていくことに喜びを覚えますし、神さまの願う生き方を知れば知るほど、神の子として生きる光栄を覚えます。神の子は礼拝で聖書の説き明かしである説教を聞くだけではなく、自分でも聖書に親しみ、神さまを喜び生きていきます。
私たちが信仰者として生きて行くための霊の糧としての聖書に日々親しむことは大切だと思います。荒野の誘惑でイエス様は悪魔に対してこう語られました。
マタイ4:4
「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある」。
日々御言葉を糧とすることの大切さを教えられます。色々な情報が私たちの目を通して、また耳を通して飛び込んできます。私たちが惑わされることなく神の子として生きていくために、聖書に親しみ続けることは大切です。
(6)新しく開ける世界
神の子として生きる時、新しい世界、信仰の世界が開けてきます。