クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

罪人の再生の始まり(8)アイデンティティーの確認(神の子)

 クリスチャンが神に祈るとき、たとえば「天の父よ」とか「父なる神さま」とか神に呼びかけて祈りを始めます。呼びかけの表現は色々ありますが、ほとんどの場合、父という言葉が用いられます。私は「天の父なる神さま」と呼びかけて祈ります。神を「父」と呼ぶことは言い換えると私たち自身は「神の子」であるということです。でも祈る時、自分が神の子であることを意識することは少ないかもしれません。

 神の子、これもクリスチャンのアイデンティティーです。神に愛される神の子です。たとい私たちが罪を犯したとしても、「おまえはわたしの子ではない」と神から勘当されるようなことはありません。イエス様が話された放蕩息子の話があります。父親から受け継いだ財産を全部使い果たし、生活に行き詰まりみじめな姿で父のもとに帰ってきた息子を出迎える父の姿、それは父なる神のお姿です。「私は息子と呼ばれる資格がありません」と語る息子に対して、彼を歓迎し、自分の息子であることを示す装束を身につけさせ、その帰宅を祝宴を開いて歓迎しました。慈愛に満ちた父の姿こそ父なる神であり、私たちクリスチャンは、帰ってきた息子です。

 私たちは父なる神に愛され、受け入れられている神さまの子どもです。そして神を父を呼びかけることを許されて祈る、神の子です。

ヨハネの手紙一3:1
御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。

ガラテヤ3:26~27
 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。

 洗礼を受けたクリスチャンはキリスト・主イエスに結ばれ、神の子であるとはっきりと書かれています。キリストを着ているとは、罪に汚れた私たちの裸の姿がキリストによって覆われているということです。私たちは義とされているということです。

 「神の子」、それはクリスチャンのアイデンティティーです。これは慰めと励ましに満ちたアイデンティティーです。あの放蕩息子のように息子と呼ばれる資格のない者を息子として受け入れてくれるのです。私が欠点のある人間でも至らぬ所があっても、罪を犯す者であっても赦し、なお受け入れてくださいます。

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