聖なる者とは、他の人々と区別された者、そして神のものであることは聖なる者というアイデンティティーのところで書きました。イスラエルの人たちは周辺にいた民族と区別されて神の民とされ、神のものとされました。
神のものとされる、というと心配する人もいるかもしれません。自分の自由を失うのではないか、神のために生きざるを得なくなってつらそうだとか窮屈になるのではないか、とか。神さまはイスラエルの民にこう言われたのです。
出エジプト記19:5~6
今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。
神さまにとってイスラエルの民は「宝」なのです。イスラエルの民は神さまのものであり、神さまにとって大切な「宝」なのでした。そして「聖なる国民」になるといわれます。私たちクリスチャンも神のものであり、神さまにとって大切な存在です。ここに人としての幸いがあります。
ヨハネ一3:1
御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。
クリスチャンは「神の子」と呼ばれるほどに、神さまに大切にされている存在です。私たちは神さまのものであり、神さまは私たちを大切にしてくださいます。私たちのことを大切に思うから、聖なる者になってほしいと神さまは願われるのです。神さまは私たちを罪の支配から解放し、神の子として成長することを願っておられます。神の子としていよいよ聖なる者になっていくことを神さまは願われるのです。
創世記によれば、神さまはご自身に似せて人間を造られました。詩編8編では、人間はご自身にわずかに劣る者として人を造られたとあります。
創世記1:26
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」。
詩編8:6~7
神に僅かに劣るものとして人を造り
なお、栄光と威光を冠としていただかせ
御手によって造られたものをすべて治めるように
その足もとに置かれました。
聖なる者としてのクリスチャンは、神さまに似ているという面があります。クリスチャンである私たちは神さまに似ることにより人間らしくなっていきます。人となられたイエス様に似た者となっていきます。ここに信仰者として栄光があると私は信じています。
ローマ3:23
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが
人は罪を犯し、神の似姿を失ってしまいました。神の似姿を保つところに人の栄光がありました。それを失いました。しかし今やイエス・キリストを信じて神の子とされたクリスチャンは、神の似姿を回復していくのです。聖なる者として成長していくのです。そこに人間の光栄があります。
聖なる者として生きることは、光栄に満ちた歩みです。このことを覚えたいです。
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聖なる者というアイデンティティーについてはこちらで確認できます。
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罪人の再生の始まり(12)