ふっと疑問が湧きました。「聖書はなぜ罪を問題にするのか」。
聖書には「最後の審判」の教えがあり、罪を犯した者はその罪が裁かれると教えます。イエス・キリストによる救いを受けた者は罪が赦されているので、最後の審判では犯した罪は裁かれません。しかし罪の赦しを受けていない者はその罪が裁かれます。その人は永遠の滅びに入れられると聖書は告げています。
聖書はなぜ罪を問題にするのでしょうか。罪は死後の生の行方を決定するから問題となるのでしょうか。確かにそういう面はあります。でもそれは聖書が罪を問題にする主たる理由ではないと思います。罪を犯すことは悪いことであり現実に神の怒りを招くことがあります。旧約聖書には神がイスラエルの民の罪に対して怒りを発している場面がいくらでもあります。神の怒りを受ける、だから罪が問題となるのでしょうか。それもあると思います。しかしもっと別な理由があると思います。
イスラエルの民がエジプトでの奴隷状態という苦境からの救いを求めて神に叫びました。神は彼らの願いを受け入れ、大いなる御業をなさり、彼らをエジプトから救い出しました。神は彼らを自由に生きることができる土地そして実りの豊かな土地へ連れて行くと約束されました。イスラエルの民はそこを目指して旅をします。旅の中で困難が生じると民は、不平を言い、文句を言います。若い頃聖書を読んだとき、イスラエルの民はなぜ神さまに信頼して助けを求めないか、と思いました。文句なんか言わないで、素直に神さまを信じ神さまに助けを求めればよかったのにと思ったことです。僕なら、神さまに助けを求めると考えたものです。
神さまにはイスラエルを救わなければならない理由はありませんでした。しかし苦しんでいるイスラエルの民を慈しみ、憐れみ、彼らを救い出されました。そこには神さまの願いがありました。神さまはイスラエルの民を神の民となるように招き、ご自身は彼らの神となるつもりでした。神さまはイスラエルの民を愛し、大切に思い、彼らに祝福を与えようとされました。だから、エジプトから救い出し、約束の地へと導こうとされました。そしてイスラエルの民が神さまを信頼し、神さまだけを神として畏れ敬うことを願われたのです。つまり神さまはイスラエルの民を愛し、イスラエルの民も神さまを愛することを願われたのです。神は愛なり!
しかしイスラエルの民は、そのような神さまの思いは理解できませんでした。エジプトでの奴隷状態のあまりのつらさゆえに神の助けを求めて叫びました。神さまは彼らの叫びを聞き、彼らを救いました。奴隷状態から解放され、イスラエルの民は自由に生きる土地を目指して旅を始めました。イスラエルの民はうれしかったことでしょう。でも思いがけないことが起きました。その旅は荒野の旅でした。荒野には食物も飲み水もないのです。旅をするうちに飢え渇きが生じます。どうしたらいいのか。自由を得た後での試練ですから、試練がよけいに辛く、苦しく感じます。つい愚痴が出たとしても不思議ではありません。
人間の心には、神というのは人間を助けるものだというような思いが潜んでいるように思います。ですから人は神を祀り神を敬います。そんな心が人間にはあります。イスラエルの民にもあったことと思います。
荒野の旅をする中で困難が繰り返し起きると、さすがに嫌になってしまい、将来についての不安が増し加わります。約束の地を目の前にしたときイスラエルの民は最大の試練を味わいました。偵察隊が、これから行く土地は実り豊かな土地で素晴らしいところだと報告します。しかしそこには強うそうな人たちが住んでいて、そこに住むには戦いが必要だと知ったとき、彼らはついに堪忍袋の緒が切れたのです。
民数記14:1~3
共同体全体は声をあげて叫び、民は夜通し泣き言を言った。イスラエルの人々は一斉にモーセとアロンに対して不平を言い、共同体全体で彼らに言った。「エジプトの国で死ぬか、この荒れ野で死ぬ方がよほどましだった。どうして、主は我々をこの土地に連れて来て、剣で殺そうとされるのか。妻子は奪われてしまうだろう。それくらいなら、エジプトに引き返した方がましだ」。
そして神さまもイスラエルの民に対して堪忍袋の緒が切れました。
民数記14:11~12
主はモーセに言われた。「この民は、いつまでわたしを侮るのか。彼らの間で行ったすべてのしるしを無視し、いつまでわたしを信じないのか。わたしは、疫病で彼らを撃ち、彼らを捨て、あなたを彼らよりも強大な国民としよう」。
罪とは何でしょう。神を憎むことです。約束の地を与えると約束し、約束の地に導かれる神をイスラエルの民は最後に憎んだのです。神に対して否!を言ったのです。約束の地に行くのはいい、でもなぜ、次から次へと困難が起きるのだ。今度は妻子を失うかも知れない。これならエジプトで奴隷であった方がまだましだとイスラエルの民は言ったのです。
神に信頼して約束の地に行こうと語ったヨシュアやカレブをイスラエルの民は石で打ち殺そうとしました。イスラエルの民は神に従うなんてもういやだ!と神を憎んだのです。ここに本当の罪があります。罪は神と信仰者の交わりを破壊するように働くのです。だから聖書は罪を問題にするのです。だから神さまは救い主イエス・キリストを送られたのです。
そしてクリスチャンにも神を憎む心があります。クリスチャンにも自己中心的な心があり、神さまの教えが自己中心的な心と衝突するとき、クリスチャンといえども神さまを憎みます。でも自分が神を憎んでいるなんて思いたくありません。それであるクリスチャンたちは「私は罪深い者です」と言います。そして「イエス様のおかげで赦されているので感謝」と言います。そして神さまの教えには従おうとしないのです。心のそこでは神さまを憎んでいるのです。
だから聖書は罪を問題にするのです。