旧約聖書に出エジプト記があります。そこにはイスラエルの民がエジプトで奴隷として苦しい生活をしていたこと、彼らはその苦しみからの助けを神に求めたこと、神はイスラエルの民の願いを聞き入れ、彼らをエジプトの奴隷状態から解放したこと、そしてイスラエルの民は自由に生きることができる土地、神が与える約束の地を目指して荒野の旅をしたことが書かれています。荒野の旅の続きは民数記にも書かれています。
聖書に、なぜこんな古い出来事が書かれているのか、どうして私たちがこれを読まなければならないのか、この昔の出来事が自分と何の関係があるのかと思う人もいると思います。でも私にはとても身近な物語です。それは信仰のモデルだからです。だから私は出エジプトの出来事が大好きです。
どのようにモデルなのでしょうか。イスラエルの民のエジプトでの奴隷である苦しみ、それは罪の奴隷、罪の支配の中で苦しい生活をしている私たちを暗示しています。私は神を知らない家庭で育ち、神を知らずに育ちました。私は死の恐れの奴隷となり、タバコの奴隷となり、空しさに囚われた若い日々を過ごしていました。その原因が神から離れて生きている罪が原因であったことを知ったのはずっと後のことです。しかし神さまは、私をこのような奴隷状態から、解放してくださいました。
ヨハネ 8:36
だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。
イスラエルの民は、約束の地を目指して荒野を旅しました。それは信仰によってする旅でした。ところがイスラエルの民は必ずしも信仰によって荒野を旅したとは言えませんでした。神に信頼するどころか、神に不平、文句を言い続けました。不平文句を言った民は約束の地に入ることができませんでした。
このイスラエルの民の荒野の旅、これは信仰者の歩みが神の国を目指す歩みであることを指し示しています。イスラエルの民の荒野の旅、それは私たちの人生を指し示しています。私たちは人生という神の国を目指す旅を信仰によって歩みます。試練があり、誘惑があり、人間関係によるつらさ、苦しみがあります。信仰によって神の国を目指します。
そしてキリスト者は人生という荒野を旅して目的地、神の国に到着します。そこで私は毎朝、「今日も御国への一日の旅路を無事に歩めますように」と祈り、夕べには、一日の歩みを無事に歩めたことの感謝の祈りをささげます。
キリスト者の人生は、罪を初めとして色々な束縛から解放されて、神の国を目指す歩みです。そのことを思い出させるのが、あの出エジプトの出来事です。