今日はマルコ福音書1章35~39節を読み、思いめぐらしました。短い箇所でしたが、イエス様の言葉が心にとまりました。
マルコ 1:38
「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」
イエス様は「わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのである」と語られました。ご自分が何のために生きているのか、明確に意識されての言葉です。イエス様は宣教のために自分はここにいると語られました。それなら私は何のために今、ここにいるのかと考えるように導かれました。
年金生活の故に、コロナ禍でも生活はなんとか支えられています。そしてしなければならない仕事もなく、ある意味変わり映えのない毎日を過ごしています。夫婦の片方に何かが起きない限り、同じような日々が続きます。こんな日々が続いてあるとき、天に召されるとするなら、いつ天に召されてもいいような日々です。
しかしイエス様は、はっきりと言われました。「わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのである」。
私は大学卒業してコンピュータ関連の会社に入社し、10年間プログラミングを仕事としてきました。コンピュータに触ることに抵抗はありません。それでインターネットを利用して、ブログを通して発信することが苦になりません。感謝なことだと思っています。インターネットを通して、私なりに発信し、それを私の宣教活動にしたいと願っています。「わたしは宣教する。そのためにわたしは出てきたのである」。このイエス様の言葉に、私は励まされました。聖書を思いめぐらす恵みに感謝です。
自分は何のために生きているのか、確認できて自分は幸いであると思いました。富、権力、自分の努力では得られない使命を与えられ感謝です。神さまをたたえます。