クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

キリスト、わが内に生きたもう(5)わが告白となる

 パウロはキリスト者とはキリストに結び合わされた存在、キリストとひとつにされた存在であると書きます。それは彼の信仰から出た言葉でした。キリストを宣べ伝える宣教の働きにおいて、キリストと同じ死と隣り合わせの苦難を味わい、キリストを復活させた神の力による救いを体験しました。彼は宣教において彼なりに自分の身においてキリストの死と復活とひとつにされる体験したのです。

 さらに内的な体験として、キリストに結び合わされ、罪を犯す自分が死に、神の子として新しい命に歩み、罪を克服して生きる者となりました。霊的な体験としてもキリストの死と復活とひとつにされました。そのような自分を顧みるとき、彼は告白します。

ガラテヤ 2:20
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。

 私もこの聖句を大切に受けとめ、私なりにこの告白をパウロと共有しています。自分の思い、自分の考えで生きる私は死に、神の言葉によって今私は生きています。神の言葉が人となったのがキリストなので、神の言葉としてのキリストがわたしの内に生きていると私は考えているのですが、いささか物足りなく感じていました。

 やはりキリストをもっと身近に感じたい、キリストと私が結ばれている、ひとつであることを実感できたらという思いがあります。しかし私は信仰者なので、実感はできたらいいと思いますが、これを追求はしません。キリストに結ばれているとの信仰に生きることが大事であると考えるからです。

 私はパウロのように、内的な体験としてキリストに結び合わされ、罪を犯す自分が死に、神の子として新しい命に歩み、罪を克服して生きる者となったことを感謝しています。でもパウロのような宣教の苦難の中で、キリストとひとつであるという思いはあまりありませんでした。が、ブログを書きながら自分の歩みを振り返ると、キリストとひとつの歩みをしてきたのではないかと思わされました。

 若い時、私は空しさの中にあり、ひそかに救いを求めていました。そんな時、キリストが神に従順にしかも十字架の死に至るまで従順に歩まれたことを知りました。空しさは自分を犠牲にするところに克服の道があるのではないかと信仰に前向きになり、やがて洗礼に導かれました。

 そして今、イエス様の言葉を新たな思いで思い起こします。

マタイ 16:24~25
「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。

 自分の十字架を背負ってイエス様に従うとは、自分がキリストとひとつにされていると信じ、キリストとひとつになって生きようとすることです。またイエス様のために命を失う者は命を得る、それはまさにキリストの死と復活を自分の身で味わうことに他ならないと気づきました。私もパウロと同じように、キリストがわたしの内に生きておられると告白します。

桐(キリ)の花 馬見丘陵公園