クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

神との和解

 パウロの手紙を読んでいて、一つの疑問を感じています。パウロは「罪の赦し」という言葉を使わないのです。私たちはイエス・キリストが十字架で死んだのは何のためだったのかと言えば、私たちの罪の償いのために死んでくださったと考えます。そのおかげで私たちは罪を赦されます。こう私たちは考えるのですが、パウロは「罪の赦し」という言葉を使わないのです。

 なぜ、罪の赦しという言葉を使わないのか、だんだん分かってきました。もちろんパウロは、イエス・キリストの十字架の死のおかげで私たちの罪が赦されていることを信じています。でもそれを書かないのです。なぜか。パウロはその先を見ているのです。つまり何のために罪が赦されるのか、それを見ているのです。


 パウロが使う言葉は「義」と「和解」です。

ローマ 3:25~26
神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。

 イエス様を信じる者を神は「義」とすると語ります。ここには罪の赦しという言葉はありません。

ローマ 5:9~10
それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。

 ここにも「罪の赦し」という言葉はありません。ここには「義」と「和解」があります。罪の赦しが前提とされていることは言うまでもありません。

コリント二 5:20~21
ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。 

 ここでもキリスト者が義とされることと神と和解されたことが語られています。キリスト者は罪赦され、義とされます。それは何のためかというと、神との交わりに迎えられるためです。神がキリスト者と和解するのは、キリスト者との関係を神が持つため、キリスト者が神との関わりに生きるためです。言い換えると神を信じて生きるとは、神との交わりに生きることなのです。神はキリスト者の罪を赦し、義とし、御自分との交わりの相手として迎えてくださいます。

 「罪の赦し」を語るとき、私たちが神との交わりに招かれていることが忘れられる可能性があります。罪赦されて良かったね、感謝だね、で終わってしまうと信仰が神との交わりに生きることであることが語られなくなり、信仰が内向きになるというか、私は罪赦されて感謝、で終わってしまう可能性があります。罪からの救いとは罪の赦しという理解でとどまり、罪からの解放という福音が語られなくなります。そこに今日の伝道の不振の原因の一つがあるのではないかと私は考えています。

 私は牧師として働いているとき、信仰とは神との交わりであることは繰り返し語ってきました。そして罪からの解放についても語ってきました。でも「和解」という言葉は使いませんでした。それはなぜなのか、と自分に問うています。うすうすと理由は分かっていますが。

f:id:holala:20210903212005j:plain

ヒレタゴボウ 水田の中に咲いています