クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

悲しむ責任

 先日アフガニスタンで自爆テロがありました。多くの死傷者が出ました。その中にはアメリカ兵13名が含まれていました。これを受けてアメリカのバイデン大統領は報復を宣言しました。演説の中で「We will not forgive,we will not forget(私たちは赦さない、私たちは忘れない)」と話していました。怒り、憎しみがこもっているような口調で話しているなと感じました。

 アメリカ軍は報復しました。その時、アフガニスタンの市民のある家庭一家が犠牲になったと報道されました。悲しい出来事です。アフガニスタン市民の命を犠牲にしてしまったことをバイデン大統領はどう受けとめるのかと思います。自爆テロをしたIS(イスラム国)のメンバーは意図的に多くの人の命を奪いました。人の命を奪うことをどう考えているのかと思います。どんな崇高な目的にしろ人命を奪うことは正当化できないと思います。しかし、私たちの内には、より大きな目的のためなら犠牲はやむを得ないという考えが潜んでいるのではないかと思います。

 イエス様は語ります。

マタイ 5:38~39
「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。

 バイデン大統領は、自爆テロを行ったISグループに「代償を払わせる」と演説しました。ある意味、目には目を、歯には歯をの行動をとったということができます。とは言え、左の頬をも向けることはできないです。

 イエス様の教えは、個人間に関わる教えで組織対組織の関係においては当てはまらないと考えてよいものかどうか。むずかしいです。正しい戦争はあるのか、これはキリスト教にとって大きなテーマです。私の手に負えるようなテーマではありません。

 今回の事態をどう受けとめたらよいのか、私には分かりません。武力では、決して平和は生まれないことは確かです。

 武力で何かを解決しようとするとき、予期しない犠牲者が生まれます。武力を行使する人たちは、自分たちの行動を正当化します。どんなに正当化しても、犠牲者を生み出したのなら、その責任は負わなければならないと思いますが、何もなされないのが現実ではないかと思います。

 そこで思います。武力で物事を解決しようとする人間の罪、そしてその罪がもたらした命の犠牲を悲しむ責任が私にはあると。