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隠退牧師 holala によるブログ

神の御子 なぜ、なに(5)罪の赦し

 聖書が伝える信仰は、神との交わりに生きる信仰です。

コリント一1:9
神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。

ヨハネ一 1:3
わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。

 人は神との交わりに生きる者であることを教えるために、神はイスラエルの民を選び、神の民としました。交わりに生きるとき大切なことは、愛です。つまり相手の心、相手の人格を重んじることです。それによって交わりが成立し、共に生きる歩みが可能となります。

 神との交わりに生きるとき、罪を犯すことは神との関係を壊します。神は罪を犯し続ける者を愛し、交わりの相手にすることはできません。神との交わりを回復するためには赦しを受けなければなりません。

 使徒パウロはコリント教会宛の手紙の中で次のように書きました。

コリント一2:2
なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。

 イエスについて言及すべき第一のことは十字架の死だとパウロは語ります。イエスの死、それは罪の贖(あがな)いの死でした。

 旧約聖書によれば、神は神の民イスラエルに対して十戒を初めとする律法を与えられました。その中で、人が罪を犯した場合、罪の赦しを受けるために贖いのいけにえを献げることを神は命じました。神は罪を犯す者と交わりを持つことができません。贖いのいけにえを献げ、神の赦しを得て、神との交わりが回復されます。

 本来なら、人間の罪を贖うので人間でなければなりません。しかし贖いのいけにえは死んでこそ贖いの働きを全うします。私たちは自分を贖うことができませんし、他者を贖うこともできません。そこで罪のない神の御子が人となり、贖いの犠牲となるという救いの道を神は開かれたのです。

 贖うとは、神の怒りをなだめるという意味があります。

 そしてイエスは全人類の、そして全人類が犯すすべての罪を贖ういけにえとして十字架で死にました。御子の犠牲の死がなければ、私たちは罪を犯すたびに贖いのいけにえを献げなければなりません。御子の犠牲は、その一回限りの十字架の死において、全人類の、全人類が犯すすべての罪を贖います。そしてイエス・キリストの贖いを信じる者は罪が赦されます。御子の犠牲なしには、私たちの救いはありません。

 私たち日本人は、もともと聖書の神を知りません。私たちは罪を犯して生きていてもそれを当たり前のようにして生きています。私たちが神と出会うのは、自分の罪を知り、赦しを受けるときではないかと思います。その時、私たちは罪を赦す神の愛を知ります。

 ある人は、神が愛なら、罪の赦しの犠牲などとややこしいこと言わず、人が「赦してください」と神に祈ったら、愛の神は赦せばよいのではと言うかも知れません。もし神がそのようにして罪を赦すなら、人は救われません。救いとは罪が赦されるだけではなく、神を愛し、人を愛する人となることだからです。

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