クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

神の御子 なぜ、なに(9)御子に似た者となる~私の場合

 神の御子を模範とすることを考えるとき、私は一つのたとえを思い起こします。私が考えたたとえです。もし神があなたに次のように言われたら、あなたはどうするでしょうか。

大地の下にアリの世界がある。アリの世界も悪が満ちていて救いを必要としている。そこであなたに、アリとなってアリの世界に行き、アリの救い主になって欲しいのだ。あなたは最後に、救い主として死ぬのだが、アリの世界に行ってくれるだろうか。

 私は迷うことなく、断ります。人間である私がアリになるなんて、しかもアリのために死ぬなんて、あり得ない話しです。私には人間としてのプライドがあるので、あり得ない話しです。

 しかしこのあり得ない話しを実践した人がいます。神であるのに、救い主として人間となった御子、しかも十字架で死んだ神の御子。神であるのにへりくだって人間になったのです。神の御子は人となり、人を救うために十字架で死なれたのです。御子は父なる神から人間の世界に行って欲しいと言われたとき、「分かりました」と言って、人間世界にお生まれになりました。ここに私たち人間に対する御子の愛があります。また人間を救う神の計画への御子の献身、父なる神への従順があります。私にはアリへの愛がないので、アリの世界に行くことは拒否します。しかし神の御子は、人間を愛し、神であるのに、神の身分に固執せず、へりくだり、人となりました。

 私は神の御子に見倣うことはできません。しかし人となったイエス、あるいはキリストには見倣うことができます。どの程度見倣うことができるか、それは考えません。見倣う努力をして生きることが大切と考えます。キリスト者としての生きる姿勢を大切にします。

 イエス・キリストのどこに見倣ったらよいのでしょうか。父なる神のみ心へ献身して人となったイエス。そして十字架の死に至るまでの、神の御心への従順です。この献身と従順の背後には父なる神への愛があります。それゆえ、神を愛し、神の御心に献身し、御心に従順に歩む、これが私にとってキリストに見倣うことです。

 具体的には、神のみ言葉を大切にします。何よりも福音とは何かを聖書から学びます。自分の力だけで福音を知ることはできないので、先人の書いた書物から学びます。そして福音を追求すること、きちんと理解すること、そして福音を信じて生きることが第一です。

 第二は御言葉に生きることです。福音を信じて生きるために聖書を読みます。信仰者としての私と切り離せないのは、ディボーションです。神の語りかけとして聖書を読み、聖書から神の導きを受け取り、その導きに従って歩むことを続けてきました。

 人は色んな状況に置かれ、いかに生きたらよいのか、迷うことが多々あります。恐れがあり、保身の思いがあり、罪との戦いがあります。そのような中で、神の導きに従う努力をしてきました。このような私の姿がどれほどキリストを見倣ったものなのかは、わかりません。また他者(ひと)からどのように見えるのかもわかりません。私としては、このような努力がキリストに見倣う歩みと信じています。

シロツメクサ 里山散歩道で