クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

受難節黙想(2)フィリピ 2:1~11

フィリピ 2:6~8
キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

 御子キリストは、人類を救おうとする父なる神の計画を受け入れました。その計画で御子キリストは神であるのに人間を愛し、神であるのにへりくだって人となりました。そして死に至るまで神に忠実に歩まれました。御子キリストは人となって世に現れ、最後には死ぬことになります。

 このような計画をそれが父なる神の計画であるので、御子は受け入れ、人となって世に生まれることを了解しました。そこには御子の父なる神への愛と、人間への愛があると考えます。

 神であるのに人となるという御子のへりくだりを思うとき、私は次のたとえを思いつきました。

 天の父なる神が私に語ります。「実は地下にアリの世界がある。アリもまた私が愛し、創造したものである。アリの世界も罪が満ちていて、混乱した世界になっている。私はあなたをアリの救い主として、アリの世界に送りたい。あなたはアリになってアリの世界に行く。あなたはアリの救い主だが、最後に死ぬ。その死によってあなたはアリを救うことになる。どうだ、行ってくれるか」。

 私は行きません。人間という身分を捨てて、アリになることはできません。アリのために死ぬなど、なおさらできません。私はアリを愛していないし、人間である私がアリになって死んでしまうなんてあり得ない話しです。人間であるというプライドがアリになることを許しません。

 私と違い、御子キリストは神であるのに人間を愛し、神であるのにへりくだって人となりました。そして死に至るまで神に忠実に歩まれました。人間を救う働きを全うされました。キリストの父なる神への愛と神への忠実、キリストの人間への愛を思います。

 へりくだるとは自らを低くすることです。人間は、神の前に自らを低くすることはなかなかできず、神の御心よりも自分の思いに生きようとします。他者のことより自分のことを優先して生きようとします。神に対しても、他者に対してもへりくだることができません。これが人間の罪です。

 こんな人間のために御子は人となり、十字架で死なれました。人間の罪が御子を死に追いやった時、拒むことなく死なれました。受難節、キリストの苦しみを思う時、キリストのこのようなへりくだりに目を向けることも大切なことだと思います。

梅 散歩道で